オリンピック
出典: Jinkawiki
誕生から現在まで
近代オリンピックの始まり フランス人、ピエール・ド・クーベルタンの提唱に世界の国々が賛同し、古代オリンピックの終焉から1500年の時を経て、近代オリンピック競技大会が誕生した。 以来1世紀にわたり、近代オリンピックは歴史と伝統を築いてきた。 第1回 アテネ大会 <1896年4月6日~15日>
近代オリンピック競技大会の第一歩となる記念すべき大会は、古代オリンピックの故郷・ギリシャのアテネで開催された。 当時のギリシャは国内の経済問題などを抱えており、開催の決定は難航したが、国際オリンピック委員会(IOC)の会長に就任したギリシャ人のデメトリウス・ビケラスや事務局長に就任したクーベルタンらの努力が実を結び、計画通りにギリシャで開催できることになった。 第1回大会の出場選手は男子のみ 開会式はアテネのパンアテナイ競技場に5万人の観衆を集めて行われた。参加したのは欧米先進国の14ヶ国。選手は男子のみで280人。第1回の近代オリンピックは、古代オリンピックと同じように女子禁制の大会だった。 実施された競技は、陸上、水泳、体操、レスリング、フェンシング、射撃、自転車、テニスの8競技43種目。ヨットも予定されていたが、悪天候のため中止になった。また、ウエイトリフティングが行われているが、このときは体操の一種目として実施された。 観衆に人気の陸上競技ではアメリカが圧倒的な強さを発揮し、全11種目のうち9種目において優勝をおさめた。 100メートルでは優勝したアメリカのトーマス・バーグ選手がただ1人クラウチング・スタートをして注目を集めた。 マラソンで地元ギリシャの選手が優勝
花形の陸上競技で優勝者がないまま最終日のマラソンを迎えた地元ギリシャ。ギリシャの故事にちなんで設定されたマラトンからパンアテナイ競技場までの約40キロのコースでのマラソンには、25人の選手が出場した。25人のうち半分以上は地元ギリシャの選手だったが、序盤から中盤にかけてギリシャ選手はトップに立つことができなかった。応援に詰めかけた観衆に失望の色が濃くなりかけたころ、残り7キロの地点でついにギリシャのスピンドル・ルイス選手がトップにおどりでた。 ルイス選手はトップのまま競技場に入り、興奮して貴賓席から飛び出したコンスタンチノス皇太子、ジョージ親王らに伴走されながら、2時間58分50秒の記録で優勝を果たした。羊飼いの仕事をしていたルイスは、この優勝で一躍ギリシャのヒーローとなった。 第2回 パリ大会 <1900年5月20日~10月28日>
万国博覧会の付属国際競技大会として実施 第2回大会は近代オリンピックの提唱者であるクーベルタンの祖国フランスのパリで開催された。 だがパリでは同じ年に万国博覧会を開催する計画があり、さまざまな事情によってオリンピックが万国博覧会の付属大会として開かれることになってしまった。 開催された競技種目や参加者は格段に増え、女子選手も出場して大会は盛大に行われた。しかし、万国博覧会の付属になってしまったことで大会運営上は大きな混乱をきたし、3位以内の入賞者へのメダルが贈られたのは運営にクーベルタンが実際に関わった陸上競技だけ。しかもメダル製作が間に合わず、選手に届いたのは2年後だったといわれている。 したがって、実施された競技数、出場選手数なども信頼できる記録にはとぼしいのだが、16競技60種目が行われ、19ヶ国から1066人(うち女子12人)の選手が参加しというのが現在のIOCの見解だ。 最年少の金メダリスト? ボート競技で決勝に進出したオランダの選手(ペア)は、スタート直前になってフランス人の男の子に「コックス」役を頼んでそのまま出場。見事に優勝を遂げた。この男の子は7歳とも10歳だったともいわれていて、オリンピック史上最年少の金メダリスト。ただ残念なことに、競技運営がしっかりしていなかったため、正確な年齢や名前などの記録は残っていない。 また初めての女性金メダリストになったのは、テニス・シングルスで優勝したイギリスのシャーロッテ・クーパー。彼女はウインブルドンで5回の優勝を誇る名テニスプレーヤーだった。 第3回 セントルイス大会 <1904年7月1日~11月23日>
キセル・マラソン事件が発覚! 第3回大会はアメリカのセントルイスで開催された。期間が5ヶ月弱と長いのは、パリ大会と同じく万国博覧会の付属大会として開催されたため。16競技87種目に、13ヶ国681人の選手が出場した。ヨーロッパから離れたアメリカでの開催のため、パリ大会よりも出場選手数が減っている。
この大会で有名な「キセル・マラソン事件」が発生している。 8月30日、猛暑の中、40キロのコースで開催されたマラソン競技で、アメリカのフレッド・ローツ選手は20キロ過ぎで力つき、道ばたに倒れ込んでしまった。 たまたま通りかかった車に乗せてもらいスタジアムに帰ろうとしたのだが、スタジアムまで5マイルのところで車がエンスト。体力を回復したローツは車から逃げるようにそのままゴールを目指し、1着でゴールしてしまった。 ローツを車に乗せた男性が迅速に告発したために、その場でローツの不正は暴かれ、およそ1時間後にゴールしたアメリカのトーマス・ヒックスが優勝の栄誉を勝ち取った。歴史に残る、不名誉なエピソード。 第4回 ロンドン大会 <1908年4月27日~10月31日>
国内オリンピック委員会ごとの参加が始まる ロンドンで開催された第4回大会から、オリンピックへの参加が各国のオリンピック委員会を通して行われるようになった。それまでは個人やチームで申し込めば参加できた。パリ、セントルイスと続いた万国博覧会付属の大会から脱却したロンドン大会には、22の国と地域から1999人の選手が参加、23競技110種目が行われた。 参加することに意義があるという言葉が生まれたわけ この大会の、とくに陸上競技でアメリカとイギリスの間にいくつかのトラブルが起こった。両国民の感情が収拾できないほど悪化していた7月19日の日曜日。セントポール・カテドラルで行われたミサで、ペンシルバニアのエチェルバート・タルボット主教は各国選手団を前に「オリンピックで重要なことは、勝利することより、むしろ参加したということであろう」と説教した。 それから5日後、イギリス政府が大会役員を招待して開いたレセプションの席上で、クーベルタンIOC会長は、この言葉を引用して演説。のちのちに語り継がれることになった。 第5回 ストックホルム大会 <1912年5月5日~7月22日>
近代オリンピックの基礎が確立 オリンピックが各国内のオリンピック委員会ごとの参加となったことで「国とは何か」を改めて問うことになり、第5回大会開催に当たっては、さまざまな問題があった。しかし、スウェーデンのバルクIOC委員は「IOCの認めたスポーツ領域は、政治上の領域とは異なる。オリンピックには政治上の領域に関係なく独立して参加する資格がある」と強く主張。着々と近代オリンピックの理想が確立されていった。この大会には28の国と地域から2490人の選手が参加。15競技108種目が行われた。 日本がオリンピックに初参加
1909年5月、クーベルタンからの呼びかけによって嘉納治五郎(当時、東京高等師範学校=のちの筑波大学=校長だった)がアジアで初めてのIOC委員に就任。ストックホルム大会への参加に向けて大日本体育協会を創設した。 1911年11月18日、19日には日本で初めて国内選考会が開催され、短距離で優勝した東京帝国大学の三島弥彦と、マラソンで世界最高記録を作って優勝した東京高等師範学校の金栗四三の2人を日本代表としてストックホルム大会に参加した。 競技の結果は、世界の壁を痛感するものだった。短距離の三島選手は外国選手との体格差の前に100メートル、200メートルともに予選最下位。400メートルは予選通過したものの疲労のため準決勝を棄権した。期待された金栗選手は炎天下のレースにもかかわらず外国人選手の無理なペースに合わせて走ったために32キロ過ぎに日射病で倒れてしまった。