米百俵
出典: Jinkawiki
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米百俵(こめひゃっぴょう)」
幕末の戊辰戦争時に、長岡藩士小林虎三郎が残した教育に関する故事
内容
虎三郎は、焼け野原の長岡を見て、「時勢に遅れないよう、時代の要請にこたえられる学問や芸術を教え、すぐれた人材を育成しよう」という理想を掲げ、
その実現に向けて動き出した。
明治2年:5月1日、戦火を免れた四郎丸村(現長岡市四郎丸)の昌福寺の本堂を借りて国漢学校を開校する
子どもたちに「素読」(論語などの読み方)を教える
明治3年:5月、長岡藩の窮状を知った三根山藩から米百俵が見舞いとして贈られる
6月15日、国漢学校新校舎が坂之上町に開校
三根山藩から米が届くと、食べるものに不足していた藩士たちは当然分け与えてもらえるものであると感じていた。
しかし、小林虎三郎は「百俵の米を食べてしまうのはそれだけで終わってしまう、明日の何万表にもなるように教育にあてる」とし、
百俵の米を売却し、その代金を国漢学校の資金に注ぎ込み、生徒一人一人の才能を高める教育がなされた。
国漢学校には洋学局、医学局も設置され、さらに藩士の子弟だけでなく町民や農民の子どもも入学を許可された。
主な輩出者
小野塚喜平次(東京帝国大学総長)
小金井良靖(解剖学博士)
小原直(司法大臣)
山本五十六(連合艦隊司令長官)
戯曲
文豪・故山本有三氏が戯曲として書き下ろした「米百俵」は虎三郎に関する詳細な研究と合わせて一冊の本にまとめられ、昭和18年に新潮社から出版された。
この中で、虎三郎は「早く、米を分けろ」といきり立つ藩士たちに向かってこう説得する。
「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。
……この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないもの
がある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。あたらしい日本はうまれないぞ。……」
教育と反戦の思想で裏打ちされた戯曲<米百俵>は大ベストセラーとなったが、時代は軍部の支配下にあり、反戦戯曲だと強い弾圧を受けて絶版となり、自主回 収の憂き目を見た。
それから約30年後の昭和50年、長岡市が<米百俵 小林虎三郎の思想>を復刻出版すると、大きな反響を呼んだ。
また、昭和54年と平成13年の2度にわたり歌舞伎座で上演され、多くの人々に感銘を与えた。
時の小泉元首相も国会で「米百俵」の精神を述べた。
この時を描いた群像が、長岡赤十字病院の前にある。
参考文献
http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kurashi/bunka/komehyaku/kome100.html