武田二十四将

出典: Jinkawiki

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武田二十四将

 意見により異なることもあるが一般的なものは秋山信友・穴山信君・ 甘利虎泰 ・板垣信方 ・一条信龍 ・小幡虎盛(小畠虎盛) ・小幡昌盛 ・飯富虎昌 ・小山田信茂 ・高坂昌信(春日虎綱) ・三枝守友 ・真田信綱 ・真田幸隆 ・武田信繁 ・武田信廉 ・多田満頼 ・土屋昌次 ・内藤昌豊 ・馬場信春 ・原虎胤 ・原昌胤 ・山県昌景 ・山本勘助 ・横田高松である。


武田四名臣

二十四将の中でも軍略・内政の両面において優れた手腕を発揮し、信玄・勝頼時代の武田家の発展に大きく寄与した四人の武将

馬場信房

 武田家臣。景政・氏勝・玄蕃・政光・信春・信勝とも。美濃守・民部少輔・民部大輔。武田信虎・信玄・勝頼の3代に仕えた譜代の老臣。とくに信玄の後期、高坂昌信・山県昌景・内藤昌豊と共に、武田四吊臣と呼ばれた。 もとの姓を教来石氏といい、教来石景政と吊乗っていた。  天文10年(1541)の「武田信虎追放事件」に際しては晴信(のちの信玄)擁立派に加わり、その後の信濃国侵攻に従軍。それらの功績を買われて天文15年(1546)、誅殺された信虎時代の老臣・馬場虎貞の吊跡を継いで馬場民部少輔を称し、50騎持ちの侍大将となった。 永禄5年(1562)には信玄の命により信濃国更級郡に牧野島城を築き、城主となった。永禄8年(1565)には「鬼美濃(原虎胤)の武吊に肖れ」と信玄から美濃守を吊乗るのを許された。  知将の誉れ高く、「一国の太守の器量人」と評されるほどの人物。信虎時代には既に功吊があり、信玄の代には押しも押されもせぬ侍大将として吊を馳せ、勝頼の代には譜代家老衆の筆頭格となった。また築城の術にも長け、前述の牧野島城の他、三河国古宮城、遠江国諏訪原城なども信房の縄張によるものである。 信玄が今川氏真を攻め、その居館に火を放ったとき(薩埵峠の合戦~今川館の戦い)、今川の宝物を奪い取れと命じたことがあったが、信房は逆に「敵の宝物を奪い取るなど、貪欲な武将と後世に物笑いの種をまく」と、宝物の全てを火の中に投じたという逸話を残す。後にこの話を聞いた信玄は密かに感謝したという。 甲州軍の大事な合戦にはみな出陣したが、四十余年間の七十余度の合戦において、負傷したことすらなかったという。これは甲州軍中稀有なことだった。 信玄の死後は勝頼にもよく仕え、天正3年(1575)5月の長篠の合戦では、戦いの上利を度々進言したが聞き入れられず、それならばと織田の軍中へ猛攻をかけ、勝頼が逃れるのを見届けて戦死した。 最期には魚鱗の陣で織田信長の本陣めがけて突撃を敢行、馬防柵を二重まで突き破った。織田方の記録にも「馬場美濃の働き比類なし」とその壮烈な戦いぶりが残されている。


山県昌景

 右三郎兵衛尉。武田氏譜代の重臣・飯富虎昌の実弟であり、昌景も武田信玄・勝頼の2代に仕えた。 その風貌は小男にて不器量と伝わるが、信玄の股肱の猛将として名を馳せた。 はじめは飯富源四郎といい、信玄の近習から使番を経て侍大将となり、永禄6年(1563)に三郎右兵衛尉と改めた。譜代家老衆3百騎持。永禄8年(1565)に信玄の嫡男・義信の守役だった兄の虎昌が謀叛の疑いで自刃(武田義信幽閉事件)させられたのち、山県氏の名跡を継いで山県昌景と名乗る。 山県隊は甲斐武田軍団の中でも精強を誇り、猛者が最も多いことで知られる。山県隊3百騎のうちで3通以上の感状を持ったものが67人もいたといい、昌景もその隊長の名に恥じない猛将であった。 山県隊は具足を赤色に統一、その勇猛ぶりは「赤備え」と恐れられた。 駿河国の江尻城主も務め、元亀元年(1570)の三方ヶ原の合戦では徳川家康軍に正面攻撃を仕掛け、秋山信友隊と共に家康本陣へと肉薄、大いに切り崩した。このとき、家康も自決の覚悟を決めたという。 天正3年(1575)5月の長篠の合戦では敵陣へと突入、戦死した。このとき、全身に銃弾を浴びて半身の自由を失ったが、采配を口に咥えて指揮を続けたといわれる。 武田家滅亡後に家康は山県隊の旧臣を井伊直政隊に多く配属し、「赤備え」を復活させた。


高坂昌信

 本姓は春日。初名は昌宣。晴昌・晴久・虎綱とも称した。 出自は甲斐国石和の大百姓の子で、初めは源助、源五郎といった。長じて北信濃の名族・高坂(香坂)氏の名跡を継いだが、晩年には本姓の春日に復している。 16歳のときに信玄に見出されて奥近習となった。美童であったという。 奥近習から使番を経て天文21年(1552)に侍大将に任じられ、信玄幕下の重臣に列せられ、天文年間末頃には信濃国の小諸城代、永禄初期には海津城将などを務めた。海津城将になったときの食禄は9千貫、武田家中の最高だった。 永禄4年(1561)の川中島の合戦:第4回のとき、撤兵する上杉軍の殿軍を攻撃して戦功があった。 元亀3年(1572)12月の三方ヶ原の合戦では、勝ちに乗じて徳川軍を深追いすることの非を信玄に説き、また、信玄が陣中で病死したときには直ちに緘口令を布いて武田軍内の動揺や混乱を防ぐなどの思慮深謀も兼ね備えていた。 天正3年(1575)5月の長篠の合戦のときには、上杉勢の侵攻に備えて海津城に滞陣していたため直接に戦闘には参加しなかったが、敗戦の報を聞くと軍勢を引き連れて勝頼を途中まで出迎え、将兵の傷の手当てをし、用意しておいた武具や衣服で容姿を整えさせたうえで帰路を取るなどの配慮も見せたという。 長篠の合戦の敗戦後も勝頼をよく補佐し、海津城将として上杉謙信に川中島進出を許さず、内政経営にも尽力した。 衰退する武田家の前途を憂えて「甲陽軍艦」を著した。この書物の始めに、自分のことを「遁(にげ)弾正」と言っているのは有名である。この「にげ」は「逃げ」ではなく、合戦に臨んではより慎重に行動し、決して無理押しはしないという温厚和順な采配を示したものという。 天正6年(1578)5月7日、武田氏の終焉を見ることなく52歳で病没した。法号は憲徳院玄庵道忠居士。


内藤昌豊

 旧姓は工藤氏で、武田信虎時代の老臣・工藤虎豊の二男で、信玄・勝頼の2代に仕えた侍大将。はじめ工藤源左衛門と名乗る。名を正重・重昌とも。修理亮・下総守。 天文元年(1532)、虎豊が信虎に強諫して誅されたために昌豊は兄・昌康と共に出奔したが、信玄の自立後に呼び戻された。 天文15年(1546)、50騎持の侍大将に昇進。 武田信繁と並んで「甲陽の副将」との呼び声が高い知将。名副将との評価に相応しく、合戦においては個人の功名よりも全軍的な視野から戦況を捉え、集団の統制に尽力したという。また、仏学・文学などの教養も高かったという。 永禄9年(1566)、武田家が上野国箕輪城を攻略した後に譜代家老衆に昇格すると共に箕輪城代として西上野7郡の統治を任され、領国経営の一翼を担った。 永禄11年(1568)の三増峠の合戦では小荷駄奉行を勤め、それまでの軍功を賞されて甲斐の名族・内藤氏の名跡を継いだ。 元亀2年(1571)、北条氏康の遺命によって武田氏と北条氏が再度の同盟を結んだとき、信玄は和睦外交の全権を昌豊に委ね、氏政との交渉にあたらせた。また、兄・工藤昌康が北条氏に仕えていたため、その伝手から交易を振興させて内陸の西上野に大量の塩や海産物をもたらすなど、経済発展にも大きく貢献したと伝わる。 信玄の没後も西上野の郡代として駐留して武田氏の発展に寄与したが、天正3年(1575)5月の長篠の合戦で戦死した。


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