ロバート・キャパ
出典: Jinkawiki
ロバート・キャパはハンガリー生まれの写真家。本名エンドレ・エルネー・フリードマン。1945年にアメリカ国籍を得る。
1913年10月22日にブダペストで生まれる。父母はともにファッションサロンを経営していた。
学生時代に自由主義、共産主義的な思想に傾倒する。
『ハイスクール(すなわち、ギムナジウム)での最後の二年間のうちに私は文学と政治に関心を持つようになり、ジャーナリストの道を選ぶことを決めた』---「キャパ その青春」リチャード・ウィーラン作 沢木耕太郎訳 33-34P
1917年に共産デモに関与したことにより逮捕。父の仲介により出所し、ハンガリーの学校を卒業後ベルリンの学校へ進学する。1931年に入学。しかし、世界恐慌により両親からの仕送りがなくなり下宿を追い出される。困惑したキャパだったが、これをきっかけに写真家になることを決め友人からカメラをもらい写真を撮影するようになる。
1932年にはベルリンで写真通信会社の暗室係を務める。暗室係だけでなく電話の対応や編集者への写真の配達、さらには仕事中のカメラマンへ必要な用具を運ぶような仕事もした。上の人間からは「ラウフブープ(ドイツ語で召使い)」と呼ばれたり、経済的な問題は解決しなかったがプロのカメラマンとの交流などが生まれジャーナリストへの道は開きつつあった。同僚は当時のキャパを「たいそう快活で、聡明で、誰からも好かれており、貧しかったがハンサムだったので、同じ職場で働いている女性たちがよくサンドウィッチを持ってきていたものだった」と語っている。 転機が訪れたのは暗室での作業中ハラルト・レッヒェンベルクが撮影したインドのパンジャーブ地方の結婚式の写真を見、猛烈な感動に襲われたことにある。キャパはその写真を社長に見せ、社長からその鑑識眼と自然な感性を認められる。そして、ライカを持たせられ簡単な仕事に送り出されるようになる。 11月の下旬。キャパに最初の大仕事、出世のきっかけとなる仕事が舞い込む。それはデンマークのコペンハーゲンにおいて当時ソ連を追い出されたトロツキーを撮影することであった。トロツキーはコペンハーゲンにおいて学生たちへの講演を決定していてその講演会に侵入し撮影を行うということだった。そして、その撮影は成功し世界的に反響を呼んだ。大きなボックス型のカメラを持ってきた人間は凶器をカメラの中に隠せる心配からか会場へと入れさせてもらえなかったがキャパの持っていたのは小さなライカだったので発見されずに済み、さらにトロツキーは演説の名人でクライマックスの激しくなった調子をボックス型カメラのフラッシュで撮影されると気分が悪くなるのだったが、フラッシュのいらないライカを所持していたキャパはなんなくトロツキーを撮影することができた。
1933年、ヒトラーが首相に任命され非アーリア人、ユダヤ人であるキャパに対してドイツ国民からの罵声や嘲弄が起こってくる。そして2月27日国会議事堂が放火され、共産党が非合法化された夜に社長から逃げるよう促されウィーンへと行く。ウィーンにあるレッヒェンベルクの家にかくまわれたキャパは6月初旬にブタペストに帰るまで助手として雇ってもらう。 ブダペストへ帰ると家族は破産しており、深刻な経済状況に置かれていることを知る。そして旅行会社のカメラマンとしてブダペストのパンフレットに掲載する写真を撮影する仕事に就く。そしてさまざまなものに閉塞感を感じていた昔の仲間と一緒にパリへと行く計画を立て、実際にパリへと行くことになる。
HN いじげん