ドボルザーク

出典: Jinkawiki

2012年2月10日 (金) 16:05 の版; 最新版を表示
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生い立ち

アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク(1841年9月8日~1904年5月1日)は、チェコの作曲家。チェコ国民楽派を代表する作曲家であり、後期ロマン派を代表する作曲家である。ドヴォルザークは、プラハの北ボヘミアに生まれた。生家は肉屋と宿屋を営んでいた。父親は簡単な舞曲を作曲して演奏することもあった。また、6歳で小学校に通い始めるが校長にヴァイオリンの手ほどきを受けると見る間に上達し、父の宿屋や教会で演奏するようになった。8歳で村の教会の聖歌隊員、9歳でアマチュア楽団のヴァイオリン奏者となり、音楽的才能を見せ始める。父親は長男であったアントニンには肉屋を継がせるつもりであったため、小学校を中退させ、故郷から30kmほど離れた伯父が住むズロニツェという町へ肉屋の修業に行かせた。ところが、この町の職業専門学校の校長で、ドイツ語を教えていたアントニン・リーマンは、教会のオルガニストや小楽団の指揮者を務め、教会音楽の作曲も行った、典型的なカントルというべき人物で、ドヴォルザークにヴァイオリン、ヴィオラ、オルガンの演奏のみならず、和声学をはじめとする音楽理論の基礎も教えた。1855年、ドヴォルザークの両親はズロニツェに移って飲食店を始めた。翌年になるとドヴォルザークはフランツ・ハンケという教師にドイツ語と音楽を学ぶことになった。ところが、家庭の経済状況が悪化して音楽の勉強を続けさせることが困難となり、両親は帰郷させて肉屋を手伝わせようとした。これにリーマンと伯父が反対し、両親を強く説得、さらには伯父が経済的負担を負う約束で1857年にドヴォルザークはプラハのオルガン学校へ入学した。 卒業後は、オーケストラのヴィオラ奏者となった。コンクールの応募作品として最初の交響曲が書かれたのは1865年のことである。しかし、この交響曲は生前演奏されることはなかった。1870年には最初のオペラである『アルフレート』を書き上げるが、この作品は、ライトモティーフの手法や切れ目のない朗唱風の歌唱など、ワーグナーの影響が強く表れている。同時期に作曲された弦楽四重奏曲第3番や第4番にもその影響が濃く、当時のドヴォルザークが熱心なワグネリアンであったことがうかがえる。さらに1871年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のプラハ初演に刺激されて、歌劇『王様と炭焼き』(第1作)が作曲されている。ドヴォルザークは1871年に、作曲に多くの時間を充てるためにオーケストラを辞し、個人レッスンで生計を立てることにした。こうした状況の中、翌1872年から作曲に取りかかった作品が、彼の最初の出世作となった賛歌『白山の後継者たち』であった。1873年3月9日、『白山の後継者たち』は、学生時代の友人カレル・ベンドルの指揮で初演された。民族主義の高まりもあり、この曲は成功を博し、プラハの音楽界で著名な存在となる契機を得た。この初演の際に、かつて音楽教師を行っていた姉妹のうち妹のアンナ・チェルマーコヴァーと再会し、この年の秋に結婚した。1874年にはプラハの聖ヴォイチェフ教会(聖アダルベルト教会)のオルガニストに就任した。そしてこの年からかつて放棄された『王様と炭焼き』の台本を再び採り上げ、これに第1作とは全く異なる音楽を作曲し、ナンバーオペラ(各曲が独立してナンバーが振られたオペラで、ワーグナーの手法とは完全に逆行する)として完成させた。1874年11月24日に行われた初演は大成功を収め、音楽雑誌『ダリボル』には「ドヴォルザークは、その名が金字塔として際だつような地位にまで高められることだろう」という批評家プロハースカの予言が踊った。こうしてドヴォルザークはワーグナーの影響下から徐々に離れていった。1891年、プラハ音楽院教授になったが、翌年から4年間招かれてニューヨーク国民音楽院の院長となった。この時に作曲した交響曲「新世界より」は、彼の最大傑作である。 1901年からは、プラハ音楽院の院長を務めた。


代表作

・交響曲第8番 ドヴォルザークの作品に共通するのはメロディーの美しさである。スラブ系の国々では、チャイコフスキーなどにも言えることであるが、民謡が生活の中に融け込んでおり、民謡が作品の主題になることが多い。交響曲第8番も各楽章の冒頭にたとえようもないような美しいメロディーが流れて曲を構成している。このように美しい交響曲は類例を見ない。この一曲をとってもドヴォルザークの才能は天才的であり、ドヴォルザークは音楽史に不朽の光を放っている。

・交響曲第9番「新世界より」 アメリカの音楽学校から依頼があり、ドヴォルザークは妻子を連れてアメリカ大陸に渡る。アメリカ大陸の雄大な自然は、ドヴォルザークの音楽に大きな影響を与えた。ナイアガラの滝を見た感動からチェロ協奏曲のインスピレーションを得た。ドヴォルザークのチェロ協奏曲は、ブラームスのヴァイオリン協奏曲に匹敵する傑作で、雄大さと念密な筆致はブラームスの絶賛を受けた。また、アイオア州にあるボヘミア村を訪れた感激から、後期の傑作である弦楽四重奏「アメリカ」に結実したりした。ドヴォルザークは、雄大なアメリカと先住民の音楽の印象から交響曲第9番を作曲して、彼の名を不朽にした。彼のアメリカ滞在で書かれた交響曲第9番「新世界より」は、それまでにないスケールの大きさと男性的な力強さが顕著な特徴になっている。


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