サダム・フセイン
出典: Jinkawiki
サッダーム・フセイン(1937.4/28 – 2006.12/30)は、イラク共和国の政治家。スンナ派のアラブ人である。イラク共和国の大統領、首相、革命指導評議会議長、バアス党地域指導部書記長、イラク軍最高司令官を務めた。 人物像 彼は筋金入りのバース党員であった。もともと彼はイラク北部の小さな村で生まれた。そんな彼は預言者モハメットの婿であるイマム・アルの子孫であるとされ飾り立てられたのだった。しかしそれによって孤児になってしまった彼は、叔父の将校に厳しく育てられ、遅れて入学した学校にやっと通って行ったのである。幼いころから気性が荒く、銃をもっていたりした。そんなことで校長から退学処分にされそうになったこともあったが、脅してそれを阻止した。権力を得てからはイラクに横暴な独裁体制を敷き、攻撃的な政治を展開し、冷戦後最大の危機である湾岸戦争のきっかけをつくったといわれている。彼は20年の間つねにイラクの長であった。彼は「ヤシの木(イラクのシンボル)を保つためには、低い枝を切らなければならない」というスローガンを原則としクルド人を容赦なく処刑した。そんな彼に対して異議申し立てするものもいたがバース党内の定期的内部処刑よりその言葉も抹消された。かれは湾岸戦争の間、ずっと汎アラブとイスラムのカードゲームをしていた。
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年表
1927 4/281 ティクリットで誕生。
1957 バース党に入党
1959 アブドゥル・カリーム将軍暗殺未遂事件に参加したとして死刑判決を受けるもエジプトへ逃亡
1963 バース党が権力を掌握したのちイラク帰国
1968 バース党成立。ハサン・アル・バクルの補佐の役を務める
1969 イラク共和国の副大統領に就任
1975 フランス訪問
1979 イラク共和国大統領就任
1980 イラン・イラク戦争開戦
1990 クウェートを占領
1991 湾岸戦争に敗北
2003 米と英が対イラク戦争開戦
2003 在イラク米軍がサダム・フセイン逮捕
2006 死刑実行
バース党
正式名称はシリアと同じくアラブ社会主義バース党。シリアで創設されたバース党のイラク支部として結成された。1951年4月7日に「党地域指導部」(RC)が設立され、その翌年の1952年に「党民族指導部」(NC)が設置された。党地域指導部初代書記長はフアード・リカービー。フセインの死後当時の幹部は公職追放とされた。 クルド人 クルド人とはトルコ・イラン・イラク・シリアにまたがる一帯の地域に居住する民族手独立国家の樹立を要求し、フセインの体制に対しいくたびも蜂起をこころみた。そんな彼らはイラクからの化学爆弾を投下され5000人もの村民が死亡した。残ったものも容赦なく一斉射撃され虐殺された。そして200万人もののクルド人はイラクからの報復を恐れトルコとイラン地方へと逃げた。
湾岸戦争
1990.8/2にイラクがクウェートに侵攻したのを機に、国際連合が多国籍軍の派遣を決定し、1991年1月17日にイラクを空爆し、始まった戦争。1991.2/28まで続き結果は国際連合の勝利であった。
イラン・イラク戦争
イランとイラクが国境をめぐって行った戦争である。1980.9/2に始まり1988.8/20に国際連合安全保障理事会の決議を受け入れ停戦を迎えた。イラクが優勢な状態のままである。
イラク戦争
イラン・イラク戦争と勘違いする人もいるがまったくちがったものである。この戦争は 2003.3/20~2011.12/14にかけて行われたものであり、アメリカが主体となってイギリスなどの国々とともにイラクに対しイラク武装解除問題に違反したとすることが原因だった。当初早期の終結が見込まれたが戦争は長引き2010.8/31アメリカの大統領バラク・オバマによって終戦が提言された。
参考文献 『サダム・フセイン』ジュディス・ミラー ロート・ミロイエ著 飛鳥出版 『ラルース 世界史人物百科Ⅳ』 フランソワ・トレモリエール カトリーヌ・リシ 著 原書房