パブリックスクール3
出典: Jinkawiki
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【イギリスの中等教育】
イギリスにおける中等教育は大きく区分して3種類ある。それは、コンプリヘンシブスクール、パブリックスクール、グラマースクールである。コンプリヘンシブスクールは無試験かつ共学制の総合中等学校である。およそ87%の児童がその学校に進学し、11歳から16歳あるいは18歳まで、就職を目的として幅広い範囲の中等教育を受けている。後者の2校が進学に対して力を注いでいるといっても、この学校から進学が不可能というわけではなく、優秀な学力を有する所もあり、大学進学を可能にしている。 パブリックスクールは、選抜制かつ全寮制の名門私立校としての認識を受けている。男子校であったり、女子校であったり、共学であったりとその形態は様々である。イギリスにおいては少ないとされている進学を目的としているこうした学校はおよそ250校ある。 グラマースクールは、中等教育の4%を受け入れている選抜制の公立校である。11歳から18歳までの児童を対象に学力教育を実施し、進学や就職を目的としている。この学校には、パブリックスクールで学びたいものの、経済的事情により公立校に行かざるをえない児童が受験し、進学を果たしている。 その他にも、イングランドに15校存在し、技術及びビジネスを重視し、幅広い中等教育を提供しているシティテクノロジーカレッジや、技術・言語・芸術・スポーツ・ビジネスや事業、エンジニアリング・科学・数学などを中心とした中等教育を提供する専門学校がある。これら2校は授業料が無料であることが共通の特徴として挙げられる。シティテクノロジーカレッジは私立校にも関わらず、企業スポンサーの支援を受け、政府により設立された学校である。企業スポンサーは最初の資本費用の大部分を負担し、学校とのつながりを発展させている。こうした専門学校は990校以上存在している。
【概要】
パブリックスクールとは、ハウス(寄宿舎)形式の社会的名門私立中学を指し示す。私立校であるにも関わらず、公立・公衆を意味するパブリックという名称が付けられたのは、諸説あるが、一番有力であるとされているのは、14世紀から15世紀にかけて、生徒をイングランドのみではなく、イギリス全土から集めたということを由来としてノンローカル、言い換えるとパブリックと表現されるというものである。実際に費用さえあれば志願者を拒否することなく、さらに出身地や居住地に関係なくイギリス全土から生徒を集めている。パブリックスクールは主にイングランド地方に点在しているわけであるが、それ以外の地方においてはパブリックスクールは私立校ではなく公立校を指し示している。一方でイングランド地方における公立校は地元出身者や地元居住者のみを受け入れることからローカルスクールと呼称される。
【歴史】
パブリックスクールの歴史は古く、最初のパブリックスクールであるウィンチェスターカレッジ(ウィンチェスタースクール)が創立されたのは1382年のことである。創立者は、貧困の農家で育ったウィリアム氏であるとされている。ウィリアム氏は、領主に目をかけてもらい、エドワード3世の宮廷に仕え、1366年にウィンチェスターの司教を務め、翌年には総理大臣に相当する役職に就くと、財産は慈善事業に寄付されるべきという当時の慣習に基づいて、オックスフォードにニューカレッジと呼称される学校を創立した以後、自身の故郷にパブリックスクールの源流とされるウィンチェスターカレッジを創立することとなる。この学校は、ウィリアム氏の設立趣意書に「貧しき学生のために」とあるように、創立当初は貧困家庭のための学校であり、経済的に貧しい学生が中心であったが、パブリックスクールの時代に変遷していくにつれて、富裕層の学生中心に変化していく。 現代においては、パブリックスクールとグラマースクールは別であるという認識があるが、当初はパブリックスクールという名称は存在せず、グラマースクールと呼称されていた。現代においては、グラマースクールは選抜制を掲げている公立中等学校を指し示すグラマースクールであるが、どうしてパブリックスクールが元々グラマースクールと呼称されていたかという理由は、中世の学問及び教育体系にあるとされている。 中世の学問は神学の召使とされていた三学(文法・弁証法・修辞学)と四科(算数・幾何・音楽・天文学)の7科目があり、総じて七自由科(セブンリベラルアーツ)と呼称され、学問の基礎とされていた。また、中世の大学においては上記の科目の他に神学・法学・医学を教授していた。イギリスの学校の歴史は、6世紀初頭に聖オーガスティンがキリスト教を布教するためにローマよりやってきた際、大聖堂や教会に不可欠な施設として開設されていた唱歌学校と呼称される儀式のための聖歌隊員を養成する学校と文法学校が最古のものであるとされている。前者は、中世になると無くなってしまったが、文法学校は教会や学問の用語かつ中世ヨーロッパの国際語であったラテン語を教授していたため、長期間にわたり教授が継続され、現代においてもその名を残している。元々、グラマースクールは大学としても機能していた。完全に中等教育専門となったのは13世紀に正式に大学が出来てからである。13世紀から15世紀にかけては、王及び貴族、富裕層の個人が直接設立したり、募金を寄付したりして、イギリス全土において300ものグラマースクールが存在した。 そうしたグラマースクールの一部がパブリックスクールへと名称を変えたのは、元々グラマースクールの多くが地域の子弟、とりわけ貧困層の子供を対象にして、設立されたものであったが、例え高額であっても入学を希望する者が多く、学校の名声を聞いたことで全国から人が集結し、結果として前述したようなローカルの状態ではなくなり(ノンローカル)パブリックスクールへと名称が変わったとされている。加えて、遠方からの通学は不可能であったため、寮が設立され、現在のパブリックスクールの特徴である全寮制へとつながっていった。 最初にパブリックスクールと呼称されるようになった学校は、1440年にヘンリー6世により設立された、ウィンザー城の近くに位置するイートンカレッジである。この学校は、王が創立したこともあり、セミロイヤルスクールとも呼称された。ヘンリー6世がこの学校を創立した理由として、当時のケンブリッジ大学の副総長が、オックスフォード大学の付属校が創立されたように、ケンブリッジのためにも学校を創立するよう提言したことが契機となっているといわれている。 イートンカレッジ創立の際、そのモデルとすることが出来たのは、ウィンチェスターカレッジしかなく、それを参考にして創立したため、創立当初のイートンカレッジはウィンチェスターカレッジの分家的な存在であった。王が創立したこともあり、イートンカレッジは基金も多く経済的には恵まれた学校であったが、1455年のバラ戦争におけるヘンリー6世の敗北による所領からの収入の減少により一時は経営危機にも陥ることとなった。 前述したようにウィンチェスターカレッジとイートンカレッジがパブリックスクールの源流ともいえる学校である。ここから数多くのパブリックスクールが誕生し、イギリス教育における特色的存在となった。以前は男子校のみで富裕層の子供が通学する学校であったが、1853年にチェルトナムレディスカレッジと呼称される女子校の誕生を契機として、女子校や共学校も増加し、奨学金制度による富裕層以外の子供も通学が可能となった。また、女子校においては寮生活の強制はなく(8割が寮生活をしているが)、男子とは異なり、5歳から開始されるプレップスクールでは10歳まで学び、11歳から18歳までパブリックスクールで学ぶシステムとなっている。
【指導理念】
パブリックスクールは単純に大学生活を送るための学校ではない。「スポーツを通じてフェアプレイの精神を育てる、厳格なハウス(寄宿舎)生活で健全な体と心を鍛える、生活行動に使命感と責任感を持たせる、たくましいリーダーを育成する」学校である。こうした指導理念に基づいて学校を運営している。パブリックスクールは共通的に、いくつものハウスに生徒を分け、共に学習させる形態をとっているが、教師が主体として機能するのではなく、生徒から監督代表者を選抜し、ハウス内の秩序維持を目指している。
【参考文献及び参考サイトURL】
「ヨーロッパの教育現場から―イギリス・フランス・ドイツの義務教育事情」(2003) 著・下条美智彦 出版・春風社 「英国パブリックスクール物語」(1993)著・伊村元道 出版・丸善ライブラリー 「イギリス―多様な教育と子供達」http://www.crn.or.jp/LIBRARY/GB/