早川雪洲

出典: Jinkawiki

2013年8月5日 (月) 03:08 の版; 最新版を表示
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早川 雪洲(はやかわ せっしゅう、本名:早川 金太郎(はやかわ きんたろう)、海外名:セッシュー・ハヤカワ(Sessue Hayakawa)、1886年6月10日 - 1973年11月23日)は、日本の俳優。日本人としてもっとも早い時代に活躍した国際的映画俳優である。


目次

生い立ち

千葉県安房郡千倉町(現・南房総市)千田出身。裕福な網元の家に生まれる。海軍軍人に憧れる軍国少年期をへて海軍予備学校(現・海城高校)を卒業した。

卒業後に、海軍兵学校を受験するも試験前の素潜りで鼓膜が破裂。感染し化膿して頭部の半分が腫れた。そのため身体検査で不合格となり絶望し自殺未遂(割腹自殺を図ったとされる)。

快復後1907年に渡米し、アメリカの有名大学の1つであるシカゴ大学に入学し、一時期フットボール部にも所属していたという。カリフォルニア州ロサンゼルスのリトルトーキョーにあった劇団で舞台の脚本を書くようになり、その舞台にも立つ。

その舞台が映画人の目にとまり、映画(トーマス・H・インス監督の『タイフーン』がデビュー作とされる)に出演する。なお、芸名は当初、尊敬する西郷隆盛の号「南洲」をもじって「北洲」としていたが、同名の俳優がいることがわかり、「北=雪が降る」ので「雪洲」とした。1913年、青木鶴子と結婚。


1915年の『チート』(セシル・B・デミル監督)で、人妻に焼きごてで焼印をする冷酷な日本人青年という悪役を演じ、一躍アメリカでスターダムに伸し上がる(ただし日本国内においては、同作で酷い日本人を演じたことで「国辱俳優」のレッテルが貼られた)。

また第一次世界大戦時には、日本やイギリスなどとともに連合国の一員として参戦したアメリカ政府の戦時公債の販売促進キャンペーンにも、イギリス人のチャーリー・チャップリンなど人気俳優とともに参加し貢献するなど、幅広い人気を得た。


第二次世界大戦

『新しき土』の撮影が完了した1937年に、映画「吉原」の撮影のためフランスに渡ったが、撮影開始後の1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、1940年にはドイツ軍にパリが占領され、親独の(つまり日本と同じ枢軸国側についた)ヴィシー政権が設立されたが、その後もパリに留まる。なお、この頃同じくパリに住んでいた大富豪の薩摩治郎八とも親交を持つ。

1941年12月には日本も第二次世界大戦に参戦し、多くの在仏日本人がフランス国内に取り残されることとなったが、雪洲もパリへ残ることとなった。なお早川は、ドイツ軍がパリを占領した後もドイツのプロパガンダに利用されることを拒み、その上にヴィシー政権に与せず自由フランスのドイツ軍に対するレジスタンス運動にも協力したこともあり、1944年に自由フランス軍と連合国軍によってパリが解放され、「敵国人」となった後も拘留されなかった。

さらに、1945年8月に日本が連合国に降伏し、第二次世界大戦が終結した後には、ドイツ軍へ協力した疑いでフランス国内で拘留された日本人の解放に、薩摩らとともに尽力した他、フランスに取り残された多くの日本人を帰国させるために活動した。


戦後

その後もパリに滞在していたが、1949年には、戦前親交のあったハンフリー・ボガートが新作映画『東京ジョー』に雪洲が出演することを強く希望、雪洲を探しまわり、パリで水彩画家をしていた雪洲を見つけ出した。

当時日本はイギリスやアメリカ、フランスなどを中心とした連合国軍に占領されており、被占領国の日本人に対するビザ発給には大きな制限がかかっていたにもかかわらず、ボガートは雪洲に再びアメリカの労働ビザを取得するよう働きかけ、アメリカ政府は第二次世界大戦中に雪洲がドイツへの戦争協力を行っていないことを確認し、労働ビザを出し出演が実現した。

その後、49年(昭和24)以降は日本に定住、『レ・ミゼラブル』などの日本映画に出演するなど日本をベースにアメリカの作品にも出演するという活動スタイルを取り、これまでのようにアメリカを中心とした外国映画だけでなく、『鞍馬天狗と勝海舟』や「怒れ!力道山」などにも出演した。


アカデミー賞ノミネート

1957年の『戦場にかける橋』では日本軍の収容所所長の斉藤大佐を演じ、日本人男優として初めてアカデミー助演男優賞にノミネートされ(受賞は逃している)、またこの作品自体もアカデミー作品賞を獲得した。捕虜収容所長斎藤大佐役は彼の演技歴の最高峰と評価されている。

ゴールデングローブ賞にもノミネートされ、ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞を受賞した。またこれまでの俳優活動が評価され、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにも名前が刻まれている。


引退と死去

その後『アンデルセン物語』や『戦場よ永遠に』など、複数のアメリカの作品に出演したが、妻の死去を受けて1966年に引退した。1973年に東京都内の病院で脳梗塞で死去した。


参考サイト Wikipedia:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E9%9B%AA%E6%B4%B2

Yahoo!百科事典:http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E9%9B%AA%E6%B4%B2/


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