ノート:イギリス2

出典: Jinkawiki

2013年8月4日 (日) 23:02 の版; 最新版を表示
←前の版 | 次の版→

目次

イギリス

グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(グレートブリテンおよびきたアイルランドれんごうおうこく、英: United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)、通称イギリスは、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4つの「国」から構成される立憲君主制国家であり、英連邦王国の一国である。また、国際関係について責任を負う地域として王室属領及び海外領土があるが、これらは厳密には「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」には含まれておらず、これらを含む正式な名称は存在しない。 ユーラシア大陸西部の北西にある島国であるが、アイルランド島でアイルランド共和国と国境を接している。国家体制は国王を国家元首とし、議院内閣制に基づく立憲君主制である。国際連合安全保障理事会常任理事国の一つである。公用語である英語は実質上世界共通語としての機能を果たしており、広大な英語圏を形成している。 大航海時代を経て、世界屈指の海洋国家として成長。西欧列強のひとつとして世界に植民地を拡大し、超大国として栄え大英帝国と呼んだ。19世紀には世界の過半を影響下におき、パクス・ブリタニカ(イギリスによる平和)と呼ばれる比較的平和な時代をもたらしたが、19世紀終盤にはドイツ、次いでアメリカに経済規模で抜かれ、第二次世界大戦を機に植民地の大部分を失い衰退し、現在に至る。


政治

政体は立憲君主制をとっている。一つに成典化された憲法典はなく、制定法(議会制定法だけでなく「大憲章(マグナ・カルタ)」のような国王と貴族の契約も含む)や判例法、歴史的文書及び慣習法(憲法的習律と呼ばれる)がイギリスの憲法を構成している。憲法を構成する法律が他の法律と同様に議会で修正可能なため軟性憲法と呼ばれる。国家元首はイギリスの君主であるが、憲法を構成する慣習法の一つに「国王は君臨すれども統治せず」とあり、その存在は極めて儀礼的である。このように歴史的にも人の支配を排した法の支配が発達しており、伝統の中に築かれた民主主義が見て取れる。また、立法権優位の議会主義が発達している。議院内閣制や政党制(複数政党制)など、現在多くの国家が採用している民主的諸制度が発祥した国として有名である。立法権は議会に、行政権は首相及び内閣に、司法権はイギリス最高裁判所及び以下の下級裁判所によって行使される。 イギリスの議会は、上院(貴族院)と下院(庶民院)の二院制である。1911年に制定された議会法(憲法の構成要素の一つ)により、「下院の優越」が定められている。議院内閣制に基づき、行政の長である首相は憲法的習律に従って下院第一党党首(下院議員)を国王が任命、閣僚は議会上下両院の議員から選出される。下院は単純小選挙区制による直接選挙(普通選挙)で選ばれるが、上院は非公選であり任命制である。近年、従来右派の保守党と左派の労働党により二大政党制化して来たが、近年では第三勢力の自由民主党(旧自由党の継承政党)の勢力も拡大している。 1996年に北アイルランドに、1999年にはスコットランドとウェールズに議会が設置され、自治が始まった。スコットランドではスコットランド国民党による独立運動が起きており、北アイルランド問題も浮上している。


歴史

1066年にウィリアム征服王 (William the Conqueror) がイングランドを制服し、大陸の進んだ封建制を導入して、王国の体制を整えていった。人口、経済力に勝るイングランドがウェールズ、スコットランドを圧倒していった。 1282年にウェールズ地方にもイングランドの州制度がしかれ、1536年には正式に併合した。1603年にイングランドとスコットランドが同君連合を形成、1707年、スコットランド合併法(1707年連合法)により、イングランドとスコットランドは合併しグレートブリテン王国となった。さらに1801年には、アイルランド合併法(1800年連合法)によりグレートブリテン王国はアイルランド王国と連合し、グレートブリテン及びアイルランド連合王国となった。ウィンザー朝のジョージ5世の1922年に英愛条約が発効され、北部6州(北アイルランド;アルスター9州の中の6州)を除く26州がアイルランド自由国(現アイルランド共和国)として独立した。1927年に現在の名称へと改名した。現在、スコットランドが独立すべきかどうかを問う国民投票が2014年に実施される見通しとなっている。イギリスは世界に先駆けて産業革命を達成し、19世紀始めのナポレオン戦争後は七つの海の覇権を握って世界中に進出し、カナダからオーストラリア、インドや香港に広がる広大な植民地を経営し、奴隷貿易が代表するような交易を繰り広げイギリス帝国を建設した。中国国内でのアヘン販売を武力で認めさせるため、中国に対して阿片戦争を仕掛けた。イギリスの世界覇権は第一次世界大戦までで、二度の大戦を経てその後はアメリカが強大国として台頭する。第二次世界大戦直後、労働党のクレメント・アトリー政権が「ゆりかごから墓場まで」をスローガンにいち早く福祉国家を作り上げたが、階級社会の伝統が根強いこともあって経済の停滞を招き、1960年代以降は「英国病」とまで呼ばれる不景気に苦しんだ。 1980年代にマーガレット・サッチャー首相が経済再建のために急進的な構造改革(民営化・行政改革・規制緩和)を実施し、大量の失業者を出した。地方経済は不振を極めたが、ロンドンを中心に金融産業などが成長した。1990年代、政権は保守党から労働党のトニー・ブレアに交代し、イギリスは市場化一辺倒の政策を修正した第三の道への路線に進むことになった。このころからイギリスは久しぶりの好況に沸き、「老大国」のイメージを払拭すべくクール・ブリタニアと言われるイメージ戦略、文化政策に力が入れられるようになった。


地理的特徴

イギリス諸島は、ヨーロッパ大陸北西の大西洋に広がる水深200メートル未満の大陸棚にある。地質や地層構造、地形なども大陸の延長としての性質を示すことから、もともと大陸の一部であることは明らかで、約8000年前までは現在のドーバー海峡の部分で地続きであったと考えられている。イギリス諸島はいずれも小さな島であるにもかかわらず、さまざまな地形が発達し、地質構造も複雑である。しかし、大別すれば、グレート・ブリテン島東岸ティーズ川河口と、南西部コーンウォール半島のエクス川河口とを結ぶ線によって、西側の石炭紀より古い岩石からなる高地イギリスと、東側の石炭紀より若い岩石からなる低地イギリスとに二分できる。高地イギリスでは、北部のスコットランド高地から、西の北アイルランド、ウェールズ北部にかけて、スカンジナビア半島から延びるカレドニア大褶曲(しゅうきょく)山系が北東から南西方向に走り、おもに片麻(へんま)岩、結晶片岩、花崗(かこう)岩などの古生代の古い岩石で構成されている。スコットランド高地は長い期間にわたる侵食作用により準平原化し、現在はハイランドの名が示すように高原状を呈し、最高のベン・ネビス山でも標高1343メートルにすぎないが、その後若い地質時代に激しい断層運動や氷食作用を受けたため地形は険しい。高地イギリスでも、南西部は同じ古生代末のヘルシニア期の褶曲作用によってつくられたヘルシニア褶曲山系の山地が横たわる。この山地の主脈となる山系は、アイルランド南西部からコーンウォール半島を経てフランスのブルターニュ半島に延びており、褶曲の方向はほぼ東西となっている。この二つの大褶曲山系の中間は、石炭紀とそれ以降の新しい地層からなり、ここにブリテン島の脊梁(せきりょう)山脈であるペニン山脈が南北に走っているが、ヘルシニア山系と接する部分に大きな炭田が発達している。一方、低地イギリスはおもに中生代、新生代の岩石からなり、緩やかな褶曲や傾動を受けている。南東部の岩石の多くは第三紀のアルプス造山運動による褶曲を受けているが、この褶曲作用によって地層は南東方向にしだいに低く傾動している。この地帯では柔らかい泥岩や粘土の層と、硬い石灰岩、砂岩、花崗岩などが互層をなす場合が多いが、侵食に対する抵抗力が違うため、傾動作用によってこの互層が地表に露出すると、硬い岩石の部分は残って急斜面をつくり、柔らかい地層の部分は緩斜面となり、ケスタとよばれる階段状の地形が発達した。イギリス諸島は、グレート・ブリテン島の南部を除きかつて氷河で覆われたため、イギリスの地形には氷食作用の影響が至る所でみられる。海岸線でも、スコットランド西岸では氷食山地の沈水による典型的なフィヨルドが発達するほか、一般に西海岸一帯には沈水海岸が広くみられ、海岸線は出入りに富んでいる。東海岸と南海岸には砂浜が発達し、そこでは河口部が海に向かって大きく開けた三角江や、ドーバーのような海食崖(がい)が点在している。


参考資料

https://ja.wikipedia.org/wiki

.yahoo.co.jp/detail/イギリス


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成