マリ・アントワネット
出典: Jinkawiki
マリー・アントワネットはオーストリアのウィーンで、皇帝の娘として生を受け、マリア・アントニア・ヨゼファ・ヨハナという洗礼名を受けたその子供こそ、後のフランス王妃となる。
パリでの歓迎
はじめてパリを公式訪問したマリー・アントワネットは、その歓迎振りに驚き、いっぺんにパリが好きになりました。平和が訪れてから10年が経過し、フランスとオーストリアの平和の象徴と、民衆は捉えたのです。誰も『オーストリア女』と呼ぶパリ市民はいませんでした。このとき、パリの人々に、マリー・アントワネットは確かに愛されていました。
幼い王妃
1774年5月10日、フランス王ルイ15世がこの世を去り、ルイ・オーギュストがフランス王ルイ16世となり、マリー・アントワネットも18歳で王妃となります。若すぎるゆえ、マリー・アントワネットに王妃の自覚はなく、本来、幸福のシンボルとなり、国民の母のような存在でいなければならないにもかかわらず、幼い王妃は自分の責任と立場が理解できなかったため、次第に人々からも反感を買うようになっていきます。宮廷の娯楽に関する一切を任されていたために、毎週3回の芝居、2回の舞踏会を催していて、年老いた者や自分が退屈だと思った人物は、宮廷から追い出してしまうなど、好き放題の振る舞いを見せていました。
首飾り事件の概要と結末 パリで相棒の宝石工・バッサンジュと共に宝石商を営んでいた、ベーマーという男がいました。彼は王室に出入りする、宮廷御用達宝石商として、マリー・アントワネットに宝石を売っていた人物です。宝石が大好きな王妃に対し、いつも国王に内緒で高価な宝石を調達していました。たまには国王にばれ、返品されたりすることもありましたが、それでも王妃はベーマーにとって金づるに変わりはありませんでした。ベーマーはルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人が購入してくれることを予想して、1774年頃、豪華な首飾りの製作を始めていました。しかし、買ってくれることを予想していたデュ・バリー夫人が、ルイ15世がなくなったために、没落してしまうのです。その矛先は、マリー・アントワネットへと向けられることになります。ダイヤが540粒使われていて、一番新しいものでも3000年以上前の物を使っていて、ベーマーが八方手を尽くして1粒1粒を探し求め、バッサンジュが丹念に研磨して細工を施した、とんでもない値打ちものだったのです。ほぼ完成していて、現在の金額で数十億円という首飾りを買えるのは、マリー・アントワネットしかいないと考えたのです。この首飾りを集めるために、莫大な借金をしていたバーマーは売り込みを焦りました。 事件を耳にしたマリー・アントワネットは激怒しました。自分が毛嫌いしているロアン枢機卿から宝石など買うわけがないと。事件の首謀者はロアンで、自分の名前をかたって宝石を騙し取ったに違いないとルイ16世に訴え、ロアンは宮廷の鏡の間で逮捕され、裁判にかけられることになりました。この事件には、フランス中が沸きあがりました。事件の中心人物が、王妃と枢機卿ときたら、熱狂せずにはいられません。寵愛の見返りとして首飾りを枢機卿に贈らせたのだとか、枢機卿を利用して、宝石をうりさばいたお金をオーストリアに送っているのだろうなどと言われ、枢機卿は犠牲者、悪いのは王妃だと噂されました。枢機卿の一族は独自に調査を行い、彼が無実で、ラ・モット伯爵婦人が首謀者であるということをつきとめ、関係者が逮捕されました。 裁判の結果、ロアンは無罪になり、民衆からは『万歳』の声があがりました。マリー・アントワネットは悔しさで泣き崩れ、結果を不服としたルイ16世も、裁判官を解雇、ロアンを修道院に隠居させてしまいます。ルイ16世は、高等法院によって無罪を言い渡された枢機卿に対し、国王が罰を与えたことで、民衆はもとより、貴族からの支持も失うことになります。
参考文献 copyright 2008 革命に飲み込まれた王妃 マリー・アントワネット http://www.marieantoinettej.com/