原爆ドーム3
出典: Jinkawiki
●広島県物産陳列館(原爆ドームの正式名称)の建設
明治後期の広島では、伝統工業のほか軍需に結びついた近代工業が発達し、特に明治37年(1904年)に起きた日露戦争を契機として、大量の軍需品の地元調達が行われたことなどによって、経済は活況を呈しました。このような経済的発展に伴い、国内での激しい市場競争に耐える製品の開発、品質向上、販路拡大等を図るための拠点づくりが求められていました。 原爆ドームのもとの建物は、チェコ人のヤン・レツルの設計により、大正4年(1915年)4月、広島県物産陳列館として竣工しました。この建物は、一部鉄骨を使用した煉瓦造の建築で、石材とモルタルで外装が施されていました。全体は窓の多い3階建てで、正面中央部分は5階建ての階段室、その上に銅板の楕円形ドーム(長軸約11メートル、短軸約8メートル、高さ4メートル)が載せられていました。第1階は主に事務用、第2階及び第3階が陳列用に当てられました。庭園の広さは約500~600坪あり、樹木が植えられ、洋式庭園には八方から水を吐く噴水を備えた池、和風庭園には四阿(あずまや)も作られていました。建坪面積は310坪、陳列場は620坪でした。
●被爆
昭和20年(1945年)8月6日、一発の原子爆弾により広島市街の建物は一瞬にして倒壊し、灰燼に帰しました。産業奨励館は爆心地から北西約160メートルの至近距離で被爆し、爆風と熱線を浴びて大破し、天井から火を吹いて全焼しましたが、爆風が上方からほとんど垂直に働いたため、本屋の中心部は奇跡的に倒壊を免れました。当時この建物の中にいた内務省中国四国土木出張所や広島県地方木材株式会社・日本木材株式会社広島支社・広島船舶木材株式会社等の職員は全員即死しました。
●原爆ドームの保存へ
戦後、旧産業奨励館の残骸は、頂上の円蓋鉄骨の形から、いつしか市民から原爆ドームと呼ばれるようになりました。
当時、原爆ドームについては、記念物として残すという考え方と、危険建造物であり被爆の悲惨な思い出につながるということで取り壊すという二つの考え方がありました。
散発的に出ていたこの存廃論議は、市街地が復興し、被爆建物が次第に姿を消していく中で、次第に本格化し、原爆投下をどう考えるか、被爆体験や肉親などの惨事をどう伝えるか、核兵器をめぐる世界の情勢をどう考えるか等の議論と重なりをみせていきました。
原爆ドームは、昭和28年(1953年)、広島県から広島市に譲与され、ほぼ被爆後の原形のまま保存されていましたが、年月とともに、周辺には雑草が生い茂り、建物も壁には亀裂が走るなどの傷みが進行し、小規模な崩壊・落下が続いて危険な状態となりました。そのため、昭和37年(1962年)以降は周囲に金網がはられて内側への立ち入りが禁止されました。 保存を求める声が高まる中で、広島市は昭和40年(1965年)7月から広島大学工学部建築学教室に依頼して原爆ドームの強度調査を行いました。翌昭和41年(1966年)7月、広島市議会が原爆ドームの保存を要望する決議を行い、これを踏まえ、広島市は保存工事のための募金運動を開始、国の内外から6,619万7,816円の寄附金等の浄財が寄せられました。そして、昭和42年(1967年)、第1回保存工事が行われました。
●原爆ドーム保存を要望する決議
”広島市は昨年、100万円の調査費をかけ、原爆ドームの保存方法について調査を完了した。 その結果、補強によって保存に耐えるとの報告をうけている。 核戦争阻止、原水爆の完全禁止の要求とともに、ドームを保存することは被爆者、全市民、全国の平和をねがう人々が切望しているところである。 ドームを完全に保存し、後世に残すことは、原爆でなくなられた20数万の霊にたいしても、また世界の平和をねがう人々にたいしても、われわれが果たさねばならぬ義務の一つである。 よって、このドームの保存について万全の措置をとるよう決議する。
昭和41年7月11日
広島市議会”