吉野家
出典: Jinkawiki
オレンジの看板で有名な牛丼チェーンである。U型のテーブルで構成されていることが多く、客の回転の速さからあまり家族向けとはいえないし、ゆったりくつろげる店ともいえない。 だが、日本のサラリーマンやOL、貧乏学生たちをかげながら支えているレストランであることは間違いない。
また、タイ王国のバンコクには、『牛野家』(ぎゅうのや)という“吉野家に何から何までソックリの店”があることが、インターニュースの調べで判明している。
1899年、当時東京日本橋にあった魚河岸で創業。魚河岸に出入りしている業者や職員向けの店であったため、忙しい彼らのためにスピード重視ですぐに提供できる牛丼を提供する店となった。
(ちなみにこの第1号店は1926年に魚河岸が築地に移転した際に一緒に移転し、現在も営業を続けている)
1970年代に急速な店舗網の拡大を推し進め、牛丼チェーンの存在を世間に認知させた功績は非常に大きい。
だが、その出店費用がかさみ、原料の輸入牛肉も供給不足に陥る。このため、輸入制限対象外で入手しやすくなるために原料の牛肉をフリーズドライ加工して配給した。タレもコストダウンのため粉末のつゆに変更するようになる。しかしこれによって味を落としてしまい客足が遠のいてしまった。 さらに外食産業全体の輸入牛肉の需要増による価格の高騰も重なり急速に経営が悪化。 1980年に120億円の負債を抱えて事実上の倒産をしてしまう。
この後、セゾングループの経営支援を受け再建。
倒産の要因の一つとなった牛肉とつゆを元に戻し、品質を向上させた。 1987年に再建を果たし、倒産のきっかけとなっった100億円の債務を完済した。
経営再建後は出店攻勢を再開し、1998年に高知県に初出店を果たして日本の全都道府県への出店を達成した。
牛肉BSE問題で一時期は牛丼を取りやめていたが、現在はやや値上げをして牛丼の販売を再開している。ちなみに、『吉野家』の築地店は牛肉BSE騒動で牛丼の販売が中止されていたなか、唯一牛丼を販売していた(吉野家の一号店という意地とプライドがあったとされる)。ただし、国産牛使用の為価格が並盛で500円と割高であった。また、契約上商品変更のできない公営競技場(いわゆる三競オート)場内の店舗でも同様に国産牛使用で牛丼を販売していた。
現在はデフレ経済下で、「なか卯」「すき家」の防犯・防災対策を怠ってコストダウンを図るなどの無謀経営による強引な値下げ攻勢に押され気味である。これに対抗するため、具材のおよそ半量を牛肉よりも圧倒的に安価な豆腐としらたきに置き換えた「牛鍋丼」を販売したが、見た目にも「牛丼よりも安くて当たり前」な外見で不評だった。結果として一人負け状態となり、巻き返しのために、「代用丼」と揶揄されていた豚丼を本場の味に近い「焼味豚丼・十勝仕立て」へと改善して味で勝負する姿勢を見せている。