黒田官兵衛2
出典: Jinkawiki
2014年放送大河ドラマ「軍師官兵衛」の主演モデルである。 播磨の国、姫路城主の嫡男として生まれた黒田官兵衛は若くして小寺氏の老家となるが、彼が30歳の時に織田信長が中国侵攻に乗り出し、安芸の毛利氏と一触即発の空気が漂った。そこで小寺氏は毛利に臣従しつづけるのか信長に屈するのかの苦渋の選択に迫られ、どちらを選択しようとどちらかの敵となり攻撃される。この選択に悩んだ小寺氏はこの決断を官兵衛に委ねることにした。官兵衛は岐阜に赴き織田信長に臣従して信頼を得ることが出来、以後豊臣秀吉に仕えてそこから中国平定へ活躍を見せることになる。
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戦国随一の軍師
戦国武将の中でも数えるほどの策略を立てることに巧みな人であり、優れた軍師として黒田官兵衛はかなりの評価を得た。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人の天下に深くかかわり、明晰な頭脳、時流を見極める力を発揮していた。
友でありライバルであった竹中半兵衛
ずば抜けた才智から三国志の名軍師にたとえ、今世の張良と言われた官兵衛であったが、同じく秀吉に仕えた竹中半兵衛も三国志の名軍師諸葛亮孔明の再来と言われた。その頃の半兵衛の評価としては「無欲恬淡であり知的戦略はおてのもの」と言われていた。官兵衛とともに「二兵衛」「両兵衛」ともよばれた。稲葉山城を奪取するなど、知略は秀吉に仕える前から発揮されていたとのこと。長篠の戦などの多くの合戦で戦略を組み立て秀吉の勝利に大きな貢献をしていた。しかし半兵衛は36歳の若さでこの世を去った。同じくその頃の官兵衛の評価は欲のために動く人物とされていて秀吉の配下たちから「仁心なく己の欲のために平地に乱を招くが如き」と『武功夜話』に記されている。嫡男の長政を窮地から半兵衛が救ったとされていて、その長政が恩人の半兵衛のかぶとを譲り受け、二兵衛のつながりは半兵衛が亡くなったあとでも続いた。
官兵衛のもう一つの顔、築城名人
築城名人として加藤清正や藤堂高虎が有名であった中、官兵衛も姫路城や大阪城などの名城にも官兵衛の知略が秘められていた。石垣や縄張りなどに官兵衛が活躍した当時の面影が残されているものもあり、官兵衛の多彩さをみることができた。
関ヶ原で天下を狙うととされていた長政への叱責
関ヶ原の戦いで功労者とたたえられた長政は家康に感謝を示されたが官兵衛はこの時に家康の命を取らなかったことを叱責した。その当時官兵衛は天下を狙い、裏で画策していたとの説があった。それ以降官兵衛は政から身を除く始末となってしまった。
官兵衛の静かな最期
関ヶ原の戦い後の官兵衛の九州での活躍に家康は褒賞を与えようとしたが官兵衛は望まなかった。ここでは逆に官兵衛は望んでいたが家康が与えなかったとの説もありさまざまな説がある。筑前・博多では平穏な生活を送り子供たちを屋敷に招くなどしてともに遊んでいた。死期が迫ってきたころ官兵衛は長政と家臣を呼び「国を治め民を安じよ」と残した。戦乱の世を生き抜いた静かな最期であったとされた、享年59歳の黒田官兵衛であった。