チェ・ゲバラ2
出典: Jinkawiki
本名はエルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ(Ernesto Rafael Guevara de la Serna、1928年6月14日 - 1967年10月9日) アルゼンチン生まれの政治家、革命家で、フィデル・カストロと共にキューバ革命を起こす。 「チェ・ゲバラ」の呼び名で知られるが、「チェ」は主にアルゼンチンやウルグアイ、パラグアイで使われているスペイン語であり、 ゲバラの口癖であったためキューバ人たちはその口癖の発音を面白がり、「チェ」ゲバラと呼ぶようになった。 これが愛称となり、多くの人がチェ・ゲバラと呼ぶようになった。
略歴 1928年・・アルゼンチンのロサリオで生まれる。 1948年・・ブエノスアイレス大学医学部に入学。 1951年・・オートバイで南アメリカをまわる旅に出る。この体験が後の『モーターサイクルダイアリーズ』になる。 1956年・・カストロと出会う。キューバに上陸 1959年・・キューバ革命成功。政府の役職につく。 1966年・・ボリビアに潜伏。ゲリラ活動を指揮する。 1967年・・ボリビアで捕らえられ、死刑に。このボリビアでのゲリラ活動が『ゲバラ日記』として死後出版された。
アルゼンチン人の父エドゥアルド・ラファエル・エルネスト・ゲバラ・リンチ、母セリア・デ・ラ・セルナ・イ・ジョサの間に生まれる。 幼児のころは非常に身体が弱く、生まれてすぐに肺炎を患ってしまい2歳のとき重度の喘息と診断された。 両親は息子の健康を一番に考え、喘息の治療に良い環境を求めて数回の転居をしている。 幼いころはこの喘息の発作により命の危険にさらされることもあり、その度に酸素吸入器を使用して回復するという状態であった。 しかしゲバラはその身体の弱さを克服するためか、ラグビーなどの激しいスポーツを好みプレイ中に発作を起こしては酸素吸入器を使用し、また試合にもどっていくという 行動を繰り返していた。この喘息には晩年まで彼を苦しめることなる。 ブエノスアイレス医科大学に通っていた次時代には、友人と「タックル」というラグビー雑誌を発行し、自ら編集もつとめた。 <南米放浪の旅> 次々に新しい事業に手を出しながら住む場所を変えていた父親と当時の女性としては珍しく自由奔放な生き方を好んでいた母親。そんな両親の血を受け継いだゲバラは、 医大にて高校時代からの友人アルベルト・グラナードと再会し、1951年に彼とともにオートバイで南米放浪の旅を経験する。 ゲバラはこのたびの途中で、サン・パブロにあるハンセン病の療養所を訪れしばらく生活を共にし、その後は彼らは手作りのいかだ「マンボ・タンゴ」号に乗ってアマゾン川をさらに下り、コロンビアへと入った。 コロンビアに入った彼らは、レティシアというという街のサッカー・チームにコーチとして雇ってもらいお金を稼ぎ、飛行機に乗って北上、首都のボゴタに到着、そこからさらにベネズエラまで旅を続けた。 しかし、アルベルトはカラカスのハンセン病療養所で職をえたため、旅を途中で止めゲバラと別れることになる。 ゲバラはその後も一人で旅を続け、競馬馬を運搬する輸送機に乗せてもらい無事アメリカのマイアミに到着。そこから飛行機に乗って故郷のアルゼンチンへともどったのであった。 ペルーでは貧しさのため病院に行けない高齢者の診察をし、チリの鉱山では劣悪な労働条件のもとで低賃金で働く労働者たちの現状を見た。そんな状況でもなお、貧乏な旅人である彼らを喜んで助けてくれた人々の優しさに感動し、感謝の気持ちを覚える毎日であった。こうした体験が、「医師」であり「アルゼンチン人」であった彼を、より大きなスケールの人間へと変えてしまっていったのである。 その後1953年、医学部を卒業した彼は友人のカルロス・フェレルとともに再び南米放浪の旅に出る。 そして再びベネズエラに向かい、アルベルトと合流して旅をを続けることにしたのだが、ベネズエラに向かう途中に訪れたボリビア革命の進むボリビアを旅した際に、それまで虐げられてきたインディオの暴動を目にする。ゲバラはそこにかつてないほど自由な雰囲気が漂っているのに大きな衝撃を受けた。 その後ペルー、エクアドル、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドルを旅行し、エクアドルで出会ったアルゼンチン人の学生たちから「グアテマラでは今本当の意味の社会革命が行われている」という話を聞かされた彼は、急ぎグアテマラに向かう。 グアテマラではハコボ・アルベンス首相を中心に農地改革を中心とした社会主義的な革命が進行中であった。 ゲバラはここで医師としての活動を続ける最中、祖国であるペルーを追われ、グアテマラに亡命していた女性活動家のイルダ・ガデアと出会い、共鳴し、社会主義に目覚め、急速にのめりこんで行くとともに、彼女と結婚する。 グアテマラ政府は貧富の差を無くすことを試みていたが、それは必然的にアメリカの企業との対立を生み、ついにはアメリカの介入を導いてしまう。 アルベンス政権が軍部の裏切りによりCIAに後押しされた反抗勢力のカスティージョ・アルマスに倒されると(PBSUCCESS作戦)、民主的な選挙によって選出され、ゲバラが「ラテンアメリカで最も自由で民主的な国」と評したグアテマラの革命政権は崩壊した。 その後、反米思想をもつ人間が次々に逮捕され、処刑され始めたため、ゲバラは仲間たちとともにグアテマラを離れ、メキシコへと移る。 <キューバ革命へ> 1955年7月、ゲバラはメキシコに亡命中の反体制派キューバ人のリーダーである、フィデル・カストロと出会う。 7月26日運動を率いてキューバのフルヘンシオ・バティスタ独裁政権打倒を目指すカストロに共感したゲバラは、このとき、一夜にして反バティスタ武装ゲリラ闘争への参加を決意したとされている。 こうしてスペイン内戦の共和派の生き残りだったアルベルト・バーヨ中佐による本格的な軍事訓練を受けて、キューバ上陸への準備が着々と進んでいった。 キューバ上陸作戦の準備を整のえると「グランマ号」という廃船直前の船でキューバに向けて出航した。老朽化の進んだ船に定員を大幅に超える兵士を乗せたため、途中で何度も沈没しかけながらも、1956年12月2日彼らはキューバ南部の海岸にたどり着いた。 兵士たちは船の衛生環境などが劣悪となったことに加え、目立たぬよう、嵐の中出航したことなどもあり、7日後にキューバに上陸した時にはすでに体力を消耗し、士気も下がっていた。さらに、彼らの上陸作戦は事前にキューバ政府に漏れていた。おまけに、上陸した軍隊の人数もわずか82名たらず。もし、この時上陸を待ち伏せされていたら壊滅をしていたことは間違いないだろう。ところが、上陸作戦のことを知ったキューバ各地の反政府勢力もまた、同時に各地で戦闘を開始したため、キューバ国内は大混乱になっていた。そのおかげで、カストロたちは兵士の大半を失うという壊滅的な被害を受けながらもなんとか上陸することが出来た。 上陸後、ろくな装備もなく食料も不十分だった彼らは政府軍の攻撃によって次々に殺されて行ってしまう。反乱軍はシエラ・マエストラ山脈に潜伏し、そこで農民たちの中から、ゲリラたちに食料や隠れ家を提供してくれる者たちが現れた。その後キューバ国内の反政府勢力との合流に成功し、ゲバラとカストロのカリスマ性に心をつかまれた多くの人が加わり、反乱軍は徐々に大きくなっていった。当初、ゲバラの部隊での役割は軍医であったが、革命軍の政治放送をするラジオ局を設立するなど、政府軍との戦闘の中でその忍耐強さと誠実さ、状況を分析する冷静な判断力、人の気持ちをつかむ才を遺憾なく発揮し、次第に反乱軍のリーダーのひとりとして認められるようになっていった。 そしてカストロから第2軍)に任命され、指揮権と少佐の階級を与えられ、名実ともにカストロに次ぐ反乱軍ナンバー2となった。 ゲバラたちの行動に共鳴する人々が増え、ハバナなどの都市部でも彼らに同調する反乱が起き始めた。その中心は、学生たちによる運動と労働者たちによる大規模なストライキであった。1958年には、ついに政府軍内部でも反乱が起きます。危機感を強めたバチスタ率いる政府軍は、革命軍に対し総攻撃をしかけますが、いつの間にか力をつけてしまった革命軍の前に敗退。1958年12月29日にはこの第2軍を率いてキューバ第2の都市サンタ・クララに突入する。そして、この年の12月31日、ついにバチスタは自らアメリカへと亡命、「キューバ革命」が達成された。闘争中の功績と献身的な働きによりキューバの市民権を与えられ、カストロはキューバ新政府の国立銀行総裁に就任するに至った。 ゲバラはその後、政治家として様々な活動を行い、休日はサトウキビの刈り入れや工場でのライン作業の労働、道路を作るための土運び、建物のレンガ積み等、積極的にボランティアに参加した。しかしこうした行動も経済を好転させるには至らず、さらに1965年1月、各国との通商交渉のために外遊を行う。2月27日に独立の過程によりキューバの盟友だったアルジェリアのアルジェで行われた「第二回アジア・アフリカ経済会議」において、ベン・ベラ大統領と共に演説を行い、当時、キューバの最も主要な貿易相手国だったソビエト連邦の外交姿勢を「帝国主義的搾取の共犯者」と非難し、論争を巻き起こした。これが原因でゲバラはソ連からの制裁を避けるためカストロにキューバの政治の一線から退く事を伝え、カストロ、父母、子供達の三者に宛てた手紙を残してキューバを離れた。 <ゲバラの最期> ゲバラはキューバを離れた後、コンゴに向かい現地で革命の指導を試みたが、コンゴの兵士達の士気の低さに失望する。 彼は反乱軍の人々をまとめることが出来ず、コンゴでの革命は失敗に終わる。 ゲバラは再び南米に戻り、ボリビアへと向かう。南米でも特に貧しいと言われる国の人々が独裁政権のもと搾取される悲惨な状況を改革するべく40人ほどの仲間とともに飛び込んだゲバラは、すぐに革命に向けた戦闘を開始した。しかし、母国アルゼンチンの隣りに位置する国でありながら、民族も違い宗教も違うボリビアはまったく異なる国であった。 しかしゲバラは独自の革命理論に固執したため、彼ら反乱軍は余計なことをするよそ者と考えられ、キューバの時のように仲間を増やすことが出来なかった。 さらに、元親衛隊中尉クラウス・バルビーを顧問としたボリビア政府軍が、冷戦下において反共軍事政権を支持していたCIAと米軍特殊部隊グリーンベレーから武器の供与と兵士の訓練を受けてゲリラ対策を練ったため、かつてのキューバ軍とは大違いの実力をもっていたため、かなりの苦戦を強いられることになる。 農民とは異なり、6月24日にカタビ鉱山では鉱山労働者がゲバラを支持する動きを見せるも、先手を打った政府軍が労働者を制圧すると、ボリビア国内勢力からのゲバラへの支援は事実上失われた。 1967年10月8日、20名前後のゲリラ部隊とともに行動、アンデス山脈にあるチューロ渓谷の戦闘で、ガリー・プラド大尉率いる政府軍のレンジャー大隊の襲撃を受けて捕えられる。 捕らえられたゲバラは小学校に収容され銃殺刑となり、首の根元部分を計3発撃たれたが絶命せず、最終的には別の兵士に心臓を撃たれて死亡した。死亡の証拠として両手首を切り落とされ、遺体は無名のまま埋められた。 そのときゲバラの迫力に気おされた兵士は、銃撃を躊躇したがゲバラがその兵士に向かって放った、「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」という最期の言葉はゲバラの名言として多くの人に知られることになる。 その後ゲバラの遺体は長い間行方が分からず、1997年、キューバとボリビアの合同捜索隊により、死後30年にして遺骨がボリビアで発見され、遺族らが居るキューバへ送られた。 キューバに持ち帰られた遺骨は、サンタクララに建つ彼の霊廟に収められることになった。 <死してなお> ゲバラが死んだ後、南アメリカ諸国を始めとした第三世界では絶大な人気を誇る英雄として多くの人に愛される。 今現在でも世界には多くのファンが存在しており、彼の革命は死してなお続いているのである。 参考文献 ・革命戦争回顧録 著 チェ・ゲバラ 翻訳 平岡緑 ・ゲバラ日記(新約) 著 チェ・ゲバラ 翻訳 平岡緑