イタリアの統一
出典: Jinkawiki
1848年のイタリア
ナポレオンによる統一的支配とその自由主義体制の施行により、イタリアは統一に向かって一歩踏み出しかけていた。しかし、ナポレオン没落後のウィーン会議の結果、再び分裂状態になり、サルディニア王国、バルマ、トスカナの三公国、ローマ法王領、両シリア王国が分裂して旧体制がまた復活した。
カヴ―ルの登場
サルディニア王国には、新王国ヴィットリオ・エマヌエレのもとに、名宰相カヴ―ルが登用され、着々と国内体制を整えて、オーストラリアに対する復仇の機会を狙っていた。カヴールはイギリスに範をとり、鉄道を敷き、港湾を整えて自由貿易政策を推進するとともに、農業の改良事業に着手した。また軍隊の改革整備を行い、大胆な国家改造事業を断行した。
統一の完成
1861年、トリノで行われた第一回イタリア国民議会は、サルディニア王をイタリア国王とすることを決議した。その後1866年イタリアはプロシアと攻守同盟を結び、普墺戦争の際にプロシア側にたって参戦し、プラーグの講和においてヴェネチアを得た。1870年の普仏戦争で、フランスが敗北して、ナポレオン三世は没落し、ローマ駐在のフランス軍が本国救援のために撤退したので、これに乗じて、ローマを占領し、人民投票によってローマのイタリア帰属が決定された。1871年イタリア王国は都をフィレンツェからローマに移した。ここにおいてイタリアの統一は完成し、ヨーロッパ強国の一つに数えられるようになった。