ケベック問題
出典: Jinkawiki
ケベックとは
カナダ東部に位置するカナダ最大の州(準州)である。州の面積は約166万7500km2で、カナダ全体の15%以上を占め、日本の面積の4倍以上である。また、州の最大都市でもあるモントリオールは人口が約380万人であり、カナダではトロントに次ぐ第二の都市である。しかし、このケベック州はただのカナダの主要地域のひとつではなく、他のカナダの地域とは全く異なる異質なエリアなのである。ここは、民族問題がくすぶる半独立国家であり、ケベック問題は国際的にみても様々な要因が重なった複雑な問題といえる。
植民地ケベックの生き残り
1534年にフランス国王の命を受けた探検家ジャック・カルティエが現在のモントリオールまで到達し、この地を「ヌーヴェル・フランス」(新しいフランス)と名付け、フランス王による領有を宣言した。しかし、フランス本国とヌーヴェル・フランスはあまりにも離れており世代を重ねるにつれ、フランス的文化ではなく独自の文化を形成するようになる。それは伝統の固守、内向的なメンタリティといった形で現在も受け継がれているものである。英仏の植民地抗争であるフレンチ・インディアン戦争(1755~1763)が起こると、イギリス軍がケベックを占領。1763年のパリ条約により、ケベックを含むカナダ全域がイギリスの植民地となる。それでも、ケベックだけはイギリスの文化に吸収されることなく生き残ったのである。その最大の理由がイギリス政府が発布した「ケベック法」である。 イギリスはケベックに対して、決して温情的な理解を示した訳ではない。北米の南部アメリカでは先住民の間でカトリックが信仰されていたが、植民地化した際にイギリスのプロテスタントを押し付けたことで、彼らの不満が爆発しアメリカ独立戦争に結びついた「前例」があったため、フランス系住民に対するカトリック信仰の自由の保障やフランス民法の温存を盛り込んだケベック法を発布したのだ。これはイギリス側の政治的打算から発布されたが、結果的にこれが彼らの文化の生き残りに繋がった。
カナダ建国による隔絶からの復活
1867年にカナダ連邦が建国した。しかし、それはアメリカ併合や分断を回避するための妥協の産物であった。この時、カナダ結成をめぐる採決においてフランス系議員に限ってみると、票決は賛成26対22票の僅差でありカナダの一員になることに躊躇していたものが多く存在していたことが伺える。このおおよそ半々の意見が、現在もくすぶるケベック問題に繋がるのだ。その後、ケベックの近代化は大きく遅れて1960年の静かな革命以前までは、住民の8割以上が農民でありケベックは一種の閉鎖的社会であった。ようやく静かな革命により、開かれた未来型志向へとケベックは進みだす。そして、この改革によりケベックは自信を取り戻し、社会は大きく変貌する。1960年代半ばごろから政治的に開眼した若手のナショナリストたちが、ケベックの分離独立を掲げ始めたのだ。
現在のケベック問題
ケベック州ではこれまで2度にわたってケベックの主権を問う住民投票を行ってきた。1980年の住民投票は1976年にケベック党が政権の座に就いたことで機運が高まり、行われた。結果は反対が59.6%、賛成が40.4%であった。1995年の住民投票は反対が50.6%賛成が49.4%であり、非常に僅差で否決された。現在は独立運動に際して目立った動きは見られないが、世論調査を行うと安定して30~40%の住民がケベックの独立に賛成であると回答しており、彼らの独立への熱気は決して失せたわけではない。また、移民の国という異名を持つカナダの中でも特に様々な地域からの移民が多いのが現在のケベックである。その中で、フランス語という言語的アイデンティティを保持するこのエリアには一種の力強さすら感じる。この異質なエリアが今後カナダの一員として「連携」を選ぶのか、もしくは「主権」を目指して独立運動を展開するのか、目が離せない。日本ではこのような民族や宗教による違いが生じることがほぼないため、このような問題について考えることは容易ではないが、異なる民族や文化が共存するカナダを初めとした国々に足を運ぶことで、国際情勢により一層関心が持てるように思う。
参考文献
ケベックを知るための54章 小畑精和 明石書店
[ http://touch.allabout.co.jp/gm/gc/178146/北米唯一の城塞都市、世界遺産ケベックシティ] HN:じょー