ベトナム戦争13
出典: Jinkawiki
ベトナム戦争
ベトナムの独立と統一をめぐる戦争。1960年結成の南ベトナム解放民族戦線は,北ベトナムの支援のもとに,南ベトナム軍およびこれを支援するアメリカ軍と戦い,69年臨時革命政府を樹立。73年和平協定が成立しアメリカ軍が撤退,75年南ベトナム政府が崩壊,翌年に南北が統一された。
ベトナム戦争は当時高度成長期にあった日本にも大きな影響を与えた。ベトナム戦争の期間中、7年6か月間に亘って日本の総理大臣を務めた佐藤栄作(1964年秋~1972年春)は、日米安保条約のもと、開戦当時はアメリカ軍の統治下にあった沖縄や横須賀、横田などの軍事基地の提供や、補給基地としてアメリカ政府を一貫して支え続け、1970年には安保条約を自動延長させた。 当時新左翼を含めてベトナム戦争反対派は「70年安保闘争」と並ぶ運動の中核とみなし、一般市民による反戦運動やアメリカ軍脱走兵への支援をおこなったほか、自らの「反戦」運動や、破壊活動をともなう過激な学生運動も盛り上がりを見せた。ただし南ベトナム解放民族戦線を支持する第四インターナショナルやベ平連等と反スターリン主義の立場から北ベトナム政権不支持を主張しベトナム戦争反対を掲げた革マル派や中核派等とでは温度差があり同床異夢の感があった。なお、ベトナムに平和を!市民連合などの反戦団体のいくつかがソ連などの共産圏の政府から金銭、物資面の後援を受けていたことが戦後当事者の証言によって明らかになっている。[要出典] また、ベトナム戦争終結後、1989年の冷戦終結までの間に、共産主義政権を嫌い、漁船などを用いて国外逃亡を図った難民(ボート・ピープル)が日本にも多く流れ着いた。また、同時期にベトナム国内の華僑の計画的な追放も発生し、後の中越戦争のきっかけの一つなった。ベトナム経済が立ち直りつつあり、新たなベトナム難民がいなくなった現在においても、彼らの取り扱いに伴う問題は解決されたとはいえない。なお、ボート・ピープルは大部分が華僑であったことが使用言語などから分かっている M.Y(http://page.freett.com/nishi/nam/vwartoha.html