公民権法2
出典: Jinkawiki
解放黒人保護法
南北戦争に自ら仕掛けた内戦に敗戦した南部諸州の多くは、不本意ながらも奴隷制度の廃止に同意はしたものの、以前の奴隷取締法とは本質的に何ら変わるところのない解放黒人取締法を改めて制定し、解放されたばかりの黒人に対し激しく対処せんとした。これは狂信的白人至上主義者の対黒人テロ活動を間接的に支援する結果となった。一方、首都ワシントンでは、ジョンソン大統領が「何人に対しても悪意を抱かず、すべての人に慈愛をもって」南部叛乱諸州に恩赦を与え、その再建に当たろうとした前任者リンカンの政策を継承し、逆に厳しい報復的再建策を主張する議会と真っ向から対決していた。ジョンソン大統領がほとんどすべての黒人保護法に拒否権を発動して議会へと鋭く対立したのとは極めて対照的に、その後を継いだグラントはすべての黒人保護法に即刻署名したばかりか、再三の布告をもって、これら諸法の忠実な遵守を全国に呼び掛けた。しかし皮肉なことに、大統領から全面的支援を勝ち得た黒人保護法=公民権法の前途に、違憲立法審査権を振りかざす連邦最高裁がまちかまえていた。
黒人保護法の形骸化
南北戦争直後の連邦議会は、連邦議会の改正と、一連の公民権法の制定によって、解放黒人を連邦政府の手で手厚く保護しようと企てた。しかし、その努力も、奴隷制時代の保守的体質を脱却できない連邦最高裁によって、ほぼ完全に挫折を余儀なくされた。短期間ではあるが、一時革新の意欲に燃えた連邦議会で制定された黒人保護法=公民権法も、30年も経ずして、もともと反動的体質の強い連邦最高裁と、南部諸州が議席を回復し、共和党の急進派も衰退して、すっかり保守化してしまった連邦議会との連携作業により、かくの如くほぼ完全に骨抜きにされ、以後70年の長きにわたり、連邦政府は黒人を直接保護する力を奪われる結果となった。
参考文献
・「アメリカの黒人と公民権法の歴史」 大谷康夫 (2002年) 明石書店 ・「アメリカ黒人解放前史 奴隷制廃止運動」 ジェームズ・B・スチュワート (1994年)明石書店
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