吉田茂2

出典: Jinkawiki

2016年7月30日 (土) 06:08 の版; 最新版を表示
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吉田茂 (1878~1967) 明治十一年、東京に生まれる。土佐自由党の志士竹内綱の五男。生後まもなく実業家吉田健三の養子となる。三十九年東京帝国法科を卒業し、外務省に入省。天津・奉天の総領事、昭和三年田中内閣の外務次官、駐伊・駐英大使などを歴任し、十四年退官。幣原・西園寺ら重臣グループと日米開戦に反対し、開戦後も近衛文麿に和平工作を働きかけ、二十年憲兵隊に逮捕される。戦後、東久・幣原内閣の外相。二十一年自由党総裁となり第一次吉田内閣を組織し、日本国憲法制定、第二次農地改革にあたる。片山・芦田内閣のあと、二十三年から二十九年まで第二次~第五次の内閣を組織。その間、サンフランシスコ講和会議に出席し、対日平和条約・日米安保条約に調和する。吉田茂は、神が戦後日本のために温存しておいた外交官だったかもしれない。事実、吉田茂は昭和十四年、駐英大使を最後として公的生涯を終えていた存在であった。敗戦の年昭和二十年(1945)には、すでに六十七歳の老人であった。戦後で何もかもを失った日本の政治、経済を復興させた人物である。連合国軍総司令官(GHQ)マッカーサー司令官の指示を受けながら日本の復興に力を入れた。アメリカ側の要求を満たしながらも、日本の意思をも貫き難しい政治運営行った。吉田茂は、マッカーサー元帥に対して常に対等の立場で話し合ったという。一般に吉田茂は、日本の戦後の大部分を治めてきた保守支配のシンボルとみなされるが、1954年に吉田茂を政治の座から追い落したのは、その保守系の政治家や実業家にほかならない。吉田茂の有名なニックネームである「ワンマン」は、今ではだいたい彼のゆるぎない個人主義を示す肯定的な意味合いで使われるが、首相をつとめていたころは、独裁的な性癖を表すものであった。 マッカーサー元帥自身は吉田茂を個人的に「ひどく怠け者で政治的には不適格」だと、カナダの学者で外交官だったE・H・ノーマンに語っている。


第45~51代内閣総理大臣 外務大臣73~79代

明治11年(1878年)、今の高知県宿毛市出身の自由民権運動家竹内綱の五男として東京神田に生まれる。 明治13年、今の横浜市南太田の貿易商吉田健三の養子として入籍する。 明治22年、養父健三が四十歳で没し、十一歳家督を継ぐ、 明治30年、藤沢の私立中学耕余義塾を修了したあと三つの中学を短期転校して、この年に学習院中等科へ編入する。 明治34年、外交官養成をめざす学習院大学科に進学する。 明治37年、東京帝国大学法科大学政治科に編入する。 明治39年、大学を卒業し、外交官および領事官試験に合格する。 明治40年、領事官補として天津総領事館赴任が取り消しとなり、奉天総領事館に着任する。 明治42年、外務省重鎮牧野伸顕の長女雪子と結婚し、ロンドン総領事館に着任する。 明治43年、三等書記官としてイタリア大使館へ移る。 大正元年、安東の領事として着任する。安東で四年を過ごす。 大正5年、安東から帰国し、あくる六年に外務省文書課長心得となる。さらに7年には済南領事、外務省書記官などを経る。 大正8年、パリ講和会議の全権委員である岳父牧野伸顕の随員としてパリに着く。 大正9年、大使館一等書記官としてロンドン在勤となる。このとき、昭和天皇の皇太子時代の祐仁殿下をイギリスに迎え、親しく対応する。 大正11年、実父の竹内綱が82歳で没する。天津総領事に着く。 大正14年、奉天総領事となる。これが昭和二年十二月まで。軍部ファシズムの台頭に懸念する。 昭和3年、浜口内閣で幣原外相のもとで外務次官となる。 昭和4年、養母の士子が74歳で没す。 昭和5年、駐イタリアを命じられる二年間駐在。 昭和10年、三年間の待命期間が満了し、自動的に外務省を退官する。 昭和11年、広田弘毅内閣の組織参謀となり、本人も外相候補となるが軍部の反対で流れる イギリス大使を命じられる。 昭和13年、イギリス大使を終えて帰国。三女和子が麻生多賀吉と結婚。 昭和14年、依願免本官となる。 昭和16年、妻の雪子が死去する。 昭和20年、憲兵隊に逮捕される。五月末に釈放。 昭和21年、自由党総裁となる。第一次吉田内閣が成立する。日本国憲法公布。 昭和22年、第一次吉田内閣総辞職。 昭和23年、第二次吉田内閣が成立する。 昭和24年、解散にともなう選挙で勝ち、第三次吉田内閣が成立する。 昭和26年、サンフランシスコで講和条約と日米安全保障条約に調印する。 昭和27年、第四次吉田内閣が成立する。 昭和28年、内閣不信任案が可決し、参議院を解散する。バカヤロウー解散。 第五次吉田内閣が成立する。 昭和29年、内閣総辞職する。このあとも昭和三十八年まで議席を持ち、米、英、仏、西独、伊など諸国を歴訪する。 昭和40年、前年の大勲位菊花大授章についで、この年には鳩杖を賜る。 昭和42年、死去し、従一位大勲位菊花章頸飾を授かる。国葬が営まれる。

「私は、国民が戦争遂行にあたって政治・軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした。」この言葉はマッカーサー元帥を深く感動させた。マッカーサーはつぎのように書いている。 「マッカーサー回記録」 私は大きい感動にゆさぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の随までもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が個人のしかくにおいても、日本の最上の紳士であることを感じとったのである。・・・占領の成功は天皇の誠実な協力と影響力に負うことろがきわめて大きかった。 (朝日新聞社) 吉田茂が英米首脳の言説を引いて説明すると、西村は「日本国総理大臣に国際情勢の見通しを承っておる」と食い下がる。吉田は「日本の総理として確信する」と応じた。このあたりから吉田の雲行きがあやしくなってきた。西村はそこをついた。「総理大臣は興奮しないほうがよろしい。別に興奮することはないじゃないか」これが、吉田の短気に火をつけた。国会議員になったのは両者とも戦後だが、吉田は外相からのスタートだ。明治末期に外務省に入省し、外務次官や駐英大使などを務めたキャリアがある。ましてや、西村は二回り以上も若輩である。 吉田「無礼なことをいうな」 西村「何が無礼だ」 吉田「無礼じゃないか」 西村「質問しているのになにが無礼だ。君の言うことが無礼だ。国際情勢の見通しについて、イギリス、チャーチルの言説を引用しないで、翻訳した言葉を述べずに、日本の総理大臣として答弁しなさいということの何が無礼だ。答弁できないのか、君は、、、、、、」 吉田「ばかやろう」 西村「なにがばかやろうだ。ばかやろうとは何事だ。これを取り消さない限りは、私はお聞きしない。議員をつかまえて、国の代表をつかまえてばかやろうとは何事だ。取り消しなさい。私は今日は静かに言説を聞いている。何を私の言うことに興奮する必要がある」 吉田「私の言葉は不穏当でありましたから、はっきり取り消します。」 吉田が矛を収めたため、西村は了承した。しかし、事態はここから憤りをみせる。追い詰められた吉田は、衆議院を解散し四月の総選挙に挑んだが、自由党は過半数を大きく割り込み、少数与党に転落。戦後間もないころから長きにわたり権勢を誇ってきた吉田政権は、これを機に衰えはじめ、結局年末に内閣総辞職、吉田は総裁を辞任した。


参考文献 問題発言  今村守之  新潮社 日本を決定した百年 吉田茂 中公文庫 吉田茂、怒濤の人 寺林俊 人物文庫 昭和、戦争と平和の日本 ジョン・W・ダワー  みすず書房


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