杉原千畝4

出典: Jinkawiki

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杉原千畝は高名な日本領事であり、海外にも在住した官僚、外交官である。杉原はリトアニアで1940年に、ユダヤ教徒救出のためのビザと書類を、英断によって発給し、約6000人の命を救いました。

目次

人物

・もちろん、ロシア語は堪能であったが、ロシア語以外にも多数の言語に精通した語学の達人であった ・杉原千畝は古武士のように寡黙で、余計なことは口にしないタイプであり、ビザ発給のことや、イスラエルでの顕彰については、一切語ろうとしなかったという。しかし、ユーモアたっぷりの優しい一面もあり、部下から信頼され、慕われていた ・インテリジェンス・オフィサーとして培った能力を、平和な時代における日ソ親善に役立てようとしていた。彼は晩年までチャレンジャーであり続けてたのである

年表

・1900年(明治33)1月1日岐阜県賀茂郡八百津町にて、父好水、母やつの次男として誕生

・1902年(明35)父好水、朝鮮に渡る

・1904年(明37)家族も朝鮮に渡りソウルに住む

・1907年(明40)4月三重県桑名市の小学校に入学。税務署員の父転勤に伴い、岐阜県恵那郡中津町立中津尋常小学校へ転勤

・1909年(明42)4月名古屋市古渡尋常小学校へ転校

・1912年(明45)3月25日名古屋市古渡尋常小学校を「全甲」の成績で卒業

           4月1日愛知県立第五中学校(現、瑞陵高校)入学

・1917年(大正6)3月26日愛知県立第五中学校入学卒業

           6月朝鮮総監府財政部に出向中の父の希望で京城医学専門学校受験をするが意に反するので白紙答案提出。父の怒りをかい東京へ出てアルバイトで生計を立てる

・1918年(大7)4月早稲田大学高等師範部(現、教育学部)英語科合格

・1919年(大8)3月31日早稲田大学予科終了。

          7月16日外務省留学生試験合格

          9月外務省ロシア語留学生としてハルビン学院に入学(早稲田大学中退)。ロシア人セミョノブナ家に下宿

・1920年(大9)12月入営1年志願兵、歩兵第79連隊第9中隊に入隊(ハルピン学院休学)

・1921年(大10)8月母やつ死去

           11月陸軍少尉になり、ハルピン学院復学

・1923年(大12)3月ハルピン学院特別科卒業、満州里に転学を命ぜられる

・1924年(大13)2月任外務省書記生として採用される

           2月15日白系露人女性クラウディア・アポロノヴァとの結婚届けを外務省に提出

           6月満洲里在勤を命ぜられる(任陸軍歩兵少尉・任正八位)

           12月ハルピン在勤を命ぜられる

・1927年(昭和2)11月杉原起草の「『ソヴィエト』聯邦国民経済大観」が活字印刷制本され、外務省内に配布せれる

・1929年(昭4)4月ハルピン学院講師任命(ロシア語文法、時事、読解、ソ連邦政治、経済事情講座を担当)

・1930年(昭5)9月日露独協会専門学校講師嘱託(ロシア語講座を担当)

・1932年(昭7)3月長春に出張を命ぜられ、満州国政府外交官の組織事務に従事する。副領事在勤を命ぜられる。(日露協会講師嘱託解任)

          5月在モスクワ日本大使館通訳官に任ぜられる

          6月満洲国外交部並びに満州駐在副代表に命ぜられる

・1933年(昭8)6月満ソ間北満鉄道買収交渉のため満洲国外交部政務局ロシア課長兼計画課長に任ぜられる

・1935年(昭10)1月日本に帰国

           12月30日クラウディアとの協議離婚成立

・1936年(昭11)1月日露漁業交渉でカムチャッカへ

           4月菊池幸子と結婚

           9月20日長男、弘樹誕生

           12月在モスクワ日本大使館二等通訳官に任ぜられる。(但しソ連の反対で在住できず)

・1937年(昭12)8月フィンランド(在ヘルシンキ)日本公使館通訳官に任ぜられる

           9月米国経由で渡欧、着任後に代理公使任命(同行者、妻幸子・長男弘樹・妻の妹節子)

・1938年(昭13)10月29日次男、千暁誕生

・1939年(昭14)7月リトアニア国の日本領事館をカウナスに新設

           11月リトアニア代理領事になる

・1940年(昭15)5月29日三男、晴生誕生

           7月27日ユダヤ難民領事館に集結

           7月28日松岡洋右外務大臣宛にビザ発給の許可を打診

           7月31日ユダヤ難民にビザ発給を開始

           8月2日外務省より領事館退去命令

           8月9日再度電報にて打診

           8月28日ホテル・メトロポリスに避難

           9月1日カウナス駅より国際列車にてベルリンへ

           10月在チェコスロバキア国日本領事として赴任(在プラハ在勤)

・1941年(昭16)3月ドイツ東プロイセン州の日本総領事として赴任(ケーニヒスベルク)ヒトラーユーゲント来訪

・1942年(昭17)12月ルーマニア国の日本公使館総領事として赴任(ブカレスト)

・1943年(昭18)ミハイ王との出会い

・1944年(昭19)ポヤナブラショフの別荘に移動

・1945年(昭20)7月ブカレストに戻り、郊外のソ連収容所に入る

・1946年(昭21)11月シベリア鉄道で帰国の途につく。ナホトカにて船を待つ

・1947年(昭22)2月興安丸ウラジオストックを出発し博多湾に上陸。沼津に一時期在住

           4月藤沢市鵠沼に居住

           6月外務省を免官。(財)世界平和建設団事務局渉外部長に就職

           11月12日三男、晴男病死

・1948年(昭23)家庭内においてユダヤ難民(リトアニア事件)について忘れることにし、以後話題にせず

           11月妻の妹、節子病死

・1950年(昭25)6月東京都長官推薦で東京PX(現松屋デパート)日本総支配人となる

・1951年(昭26)1月8日四男、伸生誕生

           5月米国貿易商A・ポンビー(銀座)支配人になる

・1952年(昭27)10月三輝貿易(株)取締役就任

・1954年(昭29)4月ニコライ学院教授

・1956年(昭31)4月科学技術庁に4年間、情報センターの技術文献翻訳(露・英独・仏語)及び商社・メーカーのカタログ露訳並びに対ソ宣伝映画のロシア語吹き込みに従事

・1957年(昭32)4月NHK国際局勤務(2年間)

・1960年(昭35)5月川上貿易(株)モスクワ事務局長として、モスクワに赴任

・1964年(昭39)11月(株)蝶理勤務

・1965年(昭40)10月国際交易(株)勤務

・1969年(昭44)9月イスラエル政府宗教大臣より勲章を受ける

・1975年(昭50)退職

・1981年(昭56)『孤立する大国日本』ゲルハルト・ダンプマン著にて杉原の献辞が掲載

・1983年(昭58)9月29日フジテレビ「運命を分けた1枚のビザ」放映

・1985年(昭60)1月18日イスラエル政府より「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」受賞

          11月エルサレムの丘で記念植樹祭と顕彰碑の除幕式

・1986年(昭61)7月31日永眠

・1989年(平成1)4月29日ADL財団ニューヨーク本部にて、「勇気ある人」賞を受賞

・1990年(平2)9月ラウル・ウオーレンバーグ賞受賞。贈呈者ロス・ペロー(ニューヨーク)

・1991年(平3)4月21日ミヤ・ヤシーバ大学に杉原千畝スカラシップ設立

          7月リトアニアに杉原千畝記念碑が建立され、「杉原通り」ができる

          10月3日日本政府により杉原千畝の名誉回復

・1992年(平4)3月11日国会にて杉原千畝の名誉回復が確認

          6月再度ADL財団より「勇気ある人」賞受賞(ロサンゼルス)

          8月12日生誕地の岐阜県八百津町に「人道の丘」記念碑建立

          8月リトアニア政府が杉原千畝をテーマにしたメダルデザインの入賞作品発表

・1953年(平5)4月22日ワシントン、ホロコースト博物館に杉原千畝コーナーができる

          6月杉原千畝の功績を紹介した高校生用英語教科書が文部省検定に合格

日本国内外での評価

第二次世界大戦の出来事の中で、一人の日本人がとった行動を、国外からも国内からも高く評価されている例は、極めて少ない。政府当局の意に反して、ユダヤ難民にビザを発給して救済した杉原千畝の行動は、リトアニア事件と言われ、そのため戦後は外務省を去った杉原あったが、海外から功績が讃えられて波紋を呼び、杉原の顕彰が様々な形で始まった。 舞台となったリトアニアでも、素晴らしい行為を記念するため「スギハラ通り」ができ、リトアニア政府は工芸の盛んな国柄を反映して、日本人杉原千畝をテーマにメダルのデザインを募集した。日本政府は1997年3月に、国会で正式に杉原千畝の名誉を回復した。8月には郷里岐阜県の八百津町に胸像が建立され、「人道の丘公園」が作られた。新聞、雑誌、テレビなどマスコミでも取り上げられ、その英断が国内にも広く知られることになった。また、高等学校の英語の教科書として、杉原千畝によるビザ発給ドキュメントの記述が、文部省検定に合格し、1994年度から使用することが認可された。人道的功労者に与えられる「ウォーレンバーグ賞」がスギハラ千畝に与えられることが決定し、1991年9月、ニューヨークに幸子夫人と息子弘樹氏が招待された。会長は後に大統領候補になったロス・ペロー氏で、「日本でも杉原氏の功績をもっと広めて下さい」と激励。1993年4月、難民救済などで世界的に実績のあるCBF(英国中央財団)の60周年ロンドン大会に、当主である。エドモンド・ロスチャイルド氏から、杉原弘樹・美智夫妻が招待された。杉原千畝の善行についてロスチャイルド氏から説明があり、会場いっぱいに割れるような拍手がわき、英国やその他の国々にも、杉原財団の支部を作ろうと盛り上がった。


出典

六千人の命のビザ【新版】 著作者杉原幸子 杉原千畝 情報を賭けた外交官 著作者白石仁章


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