戊辰戦争

出典: Jinkawiki

2008年7月14日 (月) 01:33 の版; 最新版を表示
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 概要

 戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古で成立した明治新政府が江戸幕府勢力を一掃した国内最大規模の内戦で鳥羽・伏見の戦い、上野戦争、北越戦争、会津戦争、函館戦争などの総称をいう。慶応4年/明治元年の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれる。この戦争の結果、薩長、薩長協力藩(佐賀藩、土佐藩等)出身者が明治政府の主体となり、日本は近代的な中央集権国家への道を歩んでいった。


戊辰戦争の推移

 戊辰戦争は、

・新政府下での薩長と幕府の主導権争いに起因する「鳥羽・伏見の戦い」の段階
・会津藩・庄内藩の処分問題に起因する「東北戦争(北越戦争と会津戦争を含む)」の段階
・旧幕府勢力の最後の抵抗となった「箱館戦争」の段階
              の3段階に大きく区分される。


1、鳥羽・伏見の戦い

  慶應4年(明治元年・1868年)1月3日~5日。戊辰戦争の開戦となった戦い。1月2日、大阪城にあった将軍徳川慶喜は、旧幕府軍約一万に「討薩の表」を掲 げて京への進撃を開始させた。その結果3日にこの旧幕府軍と薩摩・長州軍約四千とが激突した。  旧幕府軍は兵力こそ多数ながら鉄砲の普及率と士気の両面において薩長軍に劣り、4日、5日と連敗を喫した。また4日には朝廷が薩長軍に錦の御旗を下賜し て新政府軍と認知したため、それまで形勢を観望していた諸藩も続々と薩長側に味方した。  これ知った慶喜は6日夜に海路江戸へ逃亡したため、旧幕府軍は自壊してしまう。

2、北越戦争

  慶應4年(明治元年・1868年)4月27日~7月31日。越後平野で行なわれた西軍(北陸鎮撫総督軍)と奥羽越列藩同盟軍との戦い。4月27日、西軍は小千谷、鯨波 を占領し5月2日、長岡藩上席家老・河井継之助は中立を望み北陸鎮撫総督・岩村清一郎と小千谷・慈眼寺で会談するが決裂。長岡藩はやむなく奥羽越列藩同盟 に正式に参加し、新発田藩など他の越後5藩もこれに続いて同盟に加わった。これにより長岡藩と新政府軍の間に戦端が開かれた。同盟軍は要所新潟港を押えて 武器を補給、河井の指揮下に、長岡を中心に攻防戦を展開。ガトリング砲などの最新火器(世界で初めて戦場で機関銃が、使用された。)を駆使し、一度西軍に 落とされた長岡城を奪還。西軍は戊辰戦争中最大の苦戦を強いられたが、7月31日、長岡城を再度攻略して越後を制圧し勝利。

3、江戸城無血開城

  慶應4年(明治元年・1868年)4月11日。前将軍・徳川慶喜追討の西軍に、幕府全権陸軍総裁・勝海舟と新政府軍参謀・西郷隆盛の会談〔薩摩藩江戸屋敷〕の 末に徳川家が謝罪条件に江戸城を無血で明け渡すこととなった。1月の鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川家の運命はもはや風前の灯火であった。徳川慶喜は上野 の寛永寺に謹慎して恭順の意を示していたが、これに納得しない旧幕府勢力の一部は江戸城に立て籠もり、最後の決戦に臨む覚悟でいた。新政府軍による江戸 城総攻撃は3月15日と予定されていたが、勝の「公のために」という必死の説得に西郷も応じ、江戸が戦火に巻き込まれることは免れた。この日をもって  260余年続いた徳川幕府の完全崩壊と同時に武家政治の終焉が訪れた。

4、上野戦争

  慶應4年(明治元年・1868年)5月15日。西軍に反抗し、上野の寛永寺に立て籠もった彰義隊(幕臣で編成)と、西軍との戦い。新政府軍は長州藩の大村益次郎 が指揮した。当日の天候は雨(この時期は梅雨)で、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門 で両軍は衝突した。新政府軍側の南方は寛永寺黒門口に薩摩藩が主力としてあてられ、西方はアームストロング砲を有する肥前佐賀藩が主力となり、北方の背 面は長州藩が主力となって団子坂に結集した。東側は断崖だが、北東方面を彰義隊の退却路としてあえてあけていたようであった。彰義隊は東照宮付近に本営 を設置し、黒門の上にある山王台砲兵陣地より応戦。その威力は凄まじく、その前面の小銃陣地とともに新政府軍をなやませ、暫くの間戦況は一進一退の状態 が続いた。午後1時前、大村益次郎によりアームストロング砲の射撃命令がだされ、戦況が新政府軍側に好転。黒門口では西郷が最強の薩摩軍主力を指揮し、 防備を破り攻め入り、彰義隊は瓦解・壊走し午後五時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅した。  戦いの結果、新政府軍は江戸以西を掌握した。この戦いに敗戦した彰義隊は有志により輪王寺宮とともに隠棲し、榎本武揚の艦隊に乗船し、平潟港(現茨城県北 茨城市)に着船。春日左衛門率いる陸軍隊等、一部の隊士はいわき方面で、残る隊士は会津へと落ち延びた。戊辰戦争の前線は関東の北の要塞であった宇都宮  や、旧幕府勢力が温存されていた北陸、東北へ移った。

5、会津戦争

  慶應4年(明治元年・1868年)8月23日~9月22日。会津藩主・松平容保(京都守護職)に対する追討令が出され、薩摩・長州を主力とする西軍が会津若松を攻め た戦い。  ・会津戦争の経過

 ①二本松の戦い

  6月24日(8月12日)に棚倉城が落城、7月16日(9月2日)に三春藩が奥羽越列藩同盟を脱退し、新政府軍はじりじりと北上した。7月29日(9月15日)、藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつき新政府軍は二本松城を攻撃。二本松城は落城し二本松藩主丹羽長国は米沢へ逃れた。二本松藩は少年兵部隊を動員しており、彼らは後世、二本松少年隊と呼ばれた。特に木村銃太郎率いる20名は攻城戦の最中にそのほとんどが戦死し、会津戦争の悲劇のひとつとして語り継がれた。

②母成峠の戦い

  二本松領を占領した新政府軍はでは、次の攻撃目標に関して意見が分かれた。大村益次郎は仙台・米沢の攻撃を主張し、板垣退助と伊地知正治は、会津藩の攻撃を主張した。板垣・伊地知の意見が通り会津藩を攻撃することとなった。 二本松から若松への進撃ルートは何通りか考えられたが、新政府軍は脇街道で手薄な母成峠を衝いた。8月21日(10月6日)、新政府軍は母成峠の戦いで旧幕府軍を破り、40キロ余りを急進して8月23日(10月8日)朝に会津若松城下に突入した。新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、予備兵力であった白虎隊までも投入するがあえなく敗れた。このとき、西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子など一族21人が自刃し、城下町で発生した火災を若松城の落城と誤認した白虎隊士中二番隊の隊士の一部は飯盛山で自刃した(最年少隊士の飯沼貞吉のみは蘇生し、昭和6年(1931年)まで生き抜いた)。

 ③日光口の戦い

  会津地方南方の日光街道沿いでは、大鳥圭介率いる幕府歩兵隊と会津藩家老の山川大蔵が防衛に当たっていた。閏4月21日(6月11日)と5月6日(6月25日)の今市攻略戦では攻略に失敗したが、その後は一進一退の戦いを続けていた。だが二本松が陥落すると母成峠の防御に伝習隊を抽出し、新政府軍が若松城下に突入するに至って、山川大蔵は戦線を放棄して若松城へ駆けつけた。山川大蔵は、会津地方の伝統芸能である彼岸獅子のいでたちをすることで新政府軍の目を欺き、包囲下の若松城への入城に成功したと伝えられる。

 ④降伏

  会津藩は若松城に篭城して抵抗し、佐川官兵衛らは開城後も城外での遊撃戦を続けたが、9月に入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次いだ。孤立した会津藩は明治元年9月22日(11月6日)、新政府軍に降伏した。同盟諸藩で最後まで抵抗した庄内藩が降伏したのはその2日後である。旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ、仙台で榎本武揚と合流し、蝦夷地(北海道)へ向かった(箱館戦争)。

6、函館戦争

 慶応4年(明治元年・1868年)10月20日~1869年(明治2年)5月18日。西軍などの幕府に対する措置を不満とし、慶応4年(1868年)8月19日、榎本武揚を中心とした幕府軍2000名が「開陽丸」を旗艦とする幕府艦隊8隻で江戸を脱出。10月20日に鷲の木(森町)へ上陸し、10月26日に函館・五稜郭を占拠し函館府知事を追放、松前城・江差を奪取して蝦夷地を手中にし、共和国を建国し西軍に抵抗した戦争。

 ・函館戦争の経過

  ①旧幕府軍の蝦夷地平定

   旧幕府軍は大鳥圭介と土方歳三の二手に分かれて箱館へ進軍し、10月22日峠下の戦いで大鳥軍が箱館府軍を撃破した。各地の敗戦を聞いた箱館府知事清水谷公考は五稜郭の放棄を決め、10月25日に秋田藩の艦船陽春に乗船し青森へ退却した。旧幕府軍は10月26日に五稜郭へ無血入城し、箱館港へ艦隊を入港させた。旧幕府軍は上陸5日で箱館を占領することに成功した。 松前藩は蝦夷で唯一の新政府軍の反撃拠点の藩であった。旧幕府軍は松前藩に対して降伏勧告の使者を送るが殺され、再び送るがこれも殺されたため戦うことを決意した。10月27日に土方歳三を総司令とする700名が松前城に向け出陣し、二手に分かれて松岡四郎次郎は館城攻略に向かった。11月1日に敵の奇襲を受けるがこれを撃破し、11月5日には知内・福島の戦いに勝利した。 松前藩は徹底抗戦の構えだったが軍式は旧式だったので旧幕府軍の新式の武器や蟠龍丸・回天丸などからの砲撃を受け数時間で松前城は落城した。11月15日に館城も落城したため、松前藩主・松前徳広は青森へ敗走した。松前攻略の過程で、開陽丸は江差の浅瀬に停泊していたが暴風雪のため座礁。箱館から回天丸と神速丸が開陽丸救出の為に江差に到着したが、また風が強くなってきたため神速丸も座礁した。開陽丸は10日後沈没した。これにより旧幕府軍は制海権の維持が困難となり、新政府軍の蝦夷地上陸を許すことになる。 旧幕府軍は松前攻略により蝦夷地を平定し、箱館政権が樹立された。総裁は入れ札により決められ、156票で榎本武揚が総裁となった。

  ②宮古湾海戦

   蝦夷地を平定した旧幕府軍だが、かつての強みであった海軍力も旗艦開陽丸を失い、さらにその開陽丸を上回る性能を持つ軍艦甲鉄がアメリカから新政府の手に渡ったため、海戦での苦戦は必至だった。宮古付近に潜伏させていた偵察隊から官軍の艦隊が宮古湾に入ったとの情報を受け、3月20日3艦は宮古湾に向けて出航した。 3月23日、またもや海上で嵐に遭う事となった3艦は統率が困難になり、艦隊の集結地点である南部大津港には回天丸と高雄丸が集まったが、蟠竜丸は時間になっても現れなかった。その上、高雄丸は蒸気機関のトラブルで速度が半分に落ちてしまった。このままだと勝機を逸してしまうとの土方などの意見で結局回天丸のみで奇襲を行う事となった。 回天丸はアメリカ国旗を降ろし日本国旗を揚げて、全速力で甲鉄へと向かったので新政府軍は驚き混乱した。奇襲は成功したが、回天丸の両舷外輪や甲鉄との船高の違いが大きく思うように戦えなかった。宮古湾内にいる他の艦船の参戦や甲鉄の反撃もあり、脱出して作戦は失敗してしまい、回天丸艦長・甲賀源吾などが戦死した。機関故障のため速力のでない高雄丸が春日に追撃され、羅賀浜へ座礁させて火を放ち自燃した。

  ③新政府軍の上陸

   4月9日早朝、新政府軍2,000が乙部に上陸した。旧幕府軍の守備隊230は上陸を防ごうと敵軍へ向けて発砲したが、新政府軍先鋒の松前兵によって撃退された。新政府軍は木古内、松前、二股の3方向に分かれて進軍し松前城を奪還、陸軍奉行大鳥圭介の旧幕府軍500を木古内口の戦いで破り勝利を収め、矢不来を突破、箱館へ進軍した。 二股方面では地理的に有利な条件なこともあり、旧幕府軍300は土方歳三の采配により二股口の戦いで勝利を続けるものの、新政府軍は箱館へ迫っていたため本拠地五稜郭へ撤退した。その後、旧幕府軍は七重村の新政府軍本営を数度に渡って襲撃したが、失敗に終わった。箱館湾では陸戦と同時進行で数度海戦が行われ、旧幕府海軍は弁天台場の援護砲撃などにより何とか防戦を続けている状態だった。

  ④函館総攻撃

   新政府軍は5月11日に箱館総攻撃を開始し海陸両方より箱館を攻撃した。旧幕府軍は五稜郭を本拠地として戦った。新政府軍は旧幕府軍の四稜郭を攻撃し、四稜郭は松岡四郎次郎など守備隊が防戦していたが、新政府軍の兵力が増え四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を新政府軍に占領されたため、退路を断たれることを恐れた守備隊は五稜郭へ敗走した。 旧幕府軍の松岡磐吉が指揮する旧幕府軍艦蟠竜丸が、箱館湾海戦において新政府軍艦朝陽丸を撃沈し、一時的に勢いを取り戻したが、函館山から新政府軍に奇襲され、弁天台場まで撤退した新選組の救出に向かっていた陸軍奉行並・土方歳三が、一本木関門付近で敵の銃弾を受け戦死し、箱館市中が新政府軍によって占拠されると、間もなく旧幕府海軍もほぼ全滅した。 海戦を援助していた弁天台場は完全に包囲される形となり、台場に立て籠もっていた新選組や永井尚志らが防戦し続けたが、5月14日には降伏を表明した。5月16日には千代ヶ岡陣屋が新政府軍の降伏勧告を拒否したため、陣屋隊長・中島三郎助親子は戦死し、千代ヶ岡陣屋は全滅した。5月18日(グレゴリオ暦1869年6月27日)、本拠地五稜郭も降伏した。亀田八幡宮で総裁・榎本武揚ら旧幕府軍幹部と新政府軍の陸軍参謀・黒田清隆との間で終戦調停が行われ、箱館戦争及び戊辰戦争は終結した。


引用・参考資料 

(1) http://miyakoweb.at.infoseek.co.jp/torist2/boshinsen.htm

(2) http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/ueno/main.html 

(3) フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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