プロレタリア文化大革命2
出典: Jinkawiki
「文革の10年」は「動乱の10年」 1966年夏、毛沢東は長江で泳ぎ、その健在ぶりを内外にアピール。次いで北京に戻って8回にわたって、延べ1千万人に上る紅衛兵に接見、プロレタリア文化大革命ののろしを上げた。
目次 |
大革命の経過
’49・10...中華人民共和国成立 首都:北京
’53・1...第一次五か年計画
’58・1...第二次五か年計画
’58・4...大躍進(人民公社の開始)
’60・7...中ソ対立表面化(平和共存をめぐる対立)
’66・5...プロレタリア文化大革命勃発
’69・3...珍宝島(ダマンスキー島)事件
’71・10...国連代表権承認(台湾の国連脱退)
’72・2...ニクソン大統領訪問、米中共同声明
’76・1...周恩来死去
背景
毛沢東は、自らの指導で開始した「大躍進」政策が失敗すると国家主席の地位を退いた。59年、毛沢東に代わって国家主席に就任した劉少奇は、総書記の鄧小平とともに大躍進政策の大幅な見直しを行ない、農村の自由市場や出来高賃金制など「調整政策」の実施で一定の成果を上げる。しかし、毛沢東は長い雌伏のときを経て、劉少奇、鄧小平を資本主義への道を歩む実権派と批判し、彼らからの権力奪取の闘争を展望した。
内容
毛沢東は江青、張春橋、桃文元、王洪文の「四人組」と国防部長の林彪を率い、青少年からなる紅衛兵を組織して文革を進めた。紅衛兵は毛沢東の権威を背景に、「造反有理」(反抗には理由がある)の標語を掲げて街頭闘争を行ない、実権派(走資派)とされる人物を批判し攻撃。66年に鄧小平が、68年には劉少奇が失脚した。そのほか多くの党官僚、知識人、芸術家などが同様な批判を浴びて
その後