イタイイタイ病3
出典: Jinkawiki
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原因究明の経緯
イタイイタイ病について最初に注目したのは、荻野茂次郎医師であった。萩野医師がこの病に注目し始めたのは1935年頃であったという。だが茂次郎医師の論文はないそうだ。茂次郎死去後の1946年3月に復員してきて医業を継いだ萩野昇は、亡父の考えを知らないが、この病気に直面し、神経痛とリュウマチともわからない奇病、このイタイイタイ病の患者にメスを入れたそうだ。
イタイイタイ病について初めて医学論文に発表したのは、金沢医科大学の長澤太郎博士ほか精神医学教室の研究者・学生である。次いで論文を発表したのは、前述の河野稔ほか北品川河野臨床医学研究所員らで、論文には萩野昇医師も名を連ねている。同研究所はリュウマチの研究をしていたので、富山県衛生部に調査地帯の紹介を依頼したところ、新湊市、熊野村、婦中町の三カ所が多発地帯であると指定された。そこで1955年5月に新湊市と熊野を下調査した。8月に細谷省吾東大名誉教授参加指導のもとに12名の研究員とともに本格調査をすべく、まず重症者1名の全身のエックス線フィルムを撮ってみたところ、トルコ鞍の変形と拡大・脊髄骨の圧迫骨折・肋骨骨折・骨盤の骨折があるが変形が少ないこと・全身骨の著明な遠心性萎縮・仮骨形成の全然存在しないことなど、骨軟化症に類似すれども異なる点もあり、またリウマチや神経痛とは全く異なる疾患であることがわかった。河野らの調査が契機となり、翌年には農協高岡病院の豊田文一らによる「イタイイタイ病について」富山県立中央病院の多賀一郎ら「富山県に発生せる一風土病について」。同病院村田勇・中川昭忠「富山県に発生せる骨軟化症について」などの本病についての発表が続いた。
イタイイタイ病が神経痛やリウマチと誤認されていた1955年夏頃までは、一時的な痛み止めなどの対症療法しかなかったのはやむ得ないことであっただろう。しかし、同年夏の河野らの一斉検診とエックス線写真などの研究から、この病気は骨軟化症に酷似する疾患であろうとの診断が下された。そうすると、まず骨軟化症に対する治療法が試みられるのは当然のなりゆきであった。この場合、ビタミンD不足性骨軟化症の治療は最も簡単で、ビタミンDの間接的投与で効果的であるが、ビタミンD抵抗性骨軟化症の場合は、D不足性の場合の有効量を遥かに越えた量を絶え間なく継続投与しないと効果はなく再発されるとされている。河野は引き取ったイタイイタイ病の患者にこの治療をしたが、帰宅後にこの治療を続けなかったところ、再び悪化したので、このことが普通の骨軟化症に似ているが違うところの一つであると河野は述べている。イタイイタイ病の原因がカドミウムであるとの見解をとっていた武内重五郎教授もこれらの療法は中止すると再び症状が悪化してくるとう報告を1969年の自己の論文に肯定的に引用されていた。このような治療により自覚症状および骨病変の改善が見られることになった。しかしイタイイタイ病の診断や治療法が狭い範囲の専門家にしか伝わらなかったため、様々な病院に通院し、最後に萩野病院にたどりつくということが、1967年の調査に書かれている。
このイタイイタイ病の結論を最初に出そうとしたのは河野稔博士グループである。骨軟化症に類似しているが、ビタミンDの効果が一時的という特徴があり、従来にない病気であるとし、本疾患発生の補助的要因としては、食生活の無知。カロリーは全国平均以上であるが、ビタミンや無機質の摂取が不十分であること。過労と気候風土の悪さ、農繁期には平均18時間の労働、冬期が長く日照時間不足。産前産後の休養の少なさ。性生活、過労なのに夫婦生活が多い。お金を有効に使用していない、家や仏壇に金をかけている。これらが補助的要因であるが、以上の要因は全国の農村に共通しているので、当地に多発するのは、いわば雪の吹き溜まり現象に似ているとした。富山県立中央病院の多賀・村田・中川グループは次のような結論を出した。本病は更年期および老人性骨軟化症と診断した。この疾患は、第二次世界大戦中および戦後にわたる食料事情による栄養低下と、農村特有の食生活を含む習慣の悪環境が原因となり、これに更年期の多産婦という事情、従って内分泌系、特に女性ホルモンの関連性が有力な補助因子となって発生したものと考えられ、本症の腎細尿管障害は補助的あるいは2次的障害であると思われる。という内容の論文を出した。豊田文一らは、本症の成因については、頻回の妊婦分晩・過重な労働に従事した農村婦人にみられること、さらには米食偏重の農村食生活・摂取栄養の不足・無機質の不足とアンバランス等も考えねばならないが、その他内分泌障害・腎障害等についても検索を要すると思われる、とした。
上記にもあるように、荻野昇は、最初に河野と連名で、次に富山県立中央病院長多賀一郎と連名で、いわゆる広義の栄養原因説の発表をしていたが、やはり神通川の中流の一定地域にのみ多発する原因を栄養・過労などでは理解しがたいことから、次第に神岡の鉱毒ではないかと考えるようになり、1957年の富山県医学会で初めて亜鉛による鉱毒説を発表した。萩野の「イタイイタイ病との闘い」によるとイタイイタイ病の場合、亜鉛をはじめその他金属が患者の体内に入るため、糖尿病を起こしてくる。糖尿は京大病理学教室岡本耕造のいわゆる糖尿病亜鉛説によって説明されると、その発表の根拠を説明している。
しかし、根拠とされた岡本説の萩野の理解は逆であると非難が起きた。この鉱毒説をカドミウム説に昇華させたのは、吉岡金市であった。依頼を受けた吉岡教授は病気の原因追求に疫学的手法が極めて有効であることを熟知していた。疫学とは、集団を対象として、その中に発生する疾病や異常が、どのようにして発生し、かつどのような経過をとったかを、病因・宿主及び環境の面から追求する学問のことである。萩野医師の協力で知りえたイタイイタイ病患者の住居を地図にスポットすることで、本病が神通川水系の水を灌漑用水に使用している範囲のみに発生していることを確認し、次いで同水系の内外の土壌・植物・魚類の他に神岡鉱山とその周辺の土壌などと別水系のものとを採取し、富岡県立中央病院に保管されていた本病患者の標本を譲り受け、これらの試料の分析を岡山大学の小林教授に依頼し、神通川水系内の各試験にのみ異常が多いカドミウムの存在を見いだした。さらに地元役場での死亡診断書の調査から、患者の発生の増加と神岡鉱山の生産量の増加とが平行関係にあることを確かめさせた。併せて、文献調査により見出した「カドミウムによる慢性中毒での骨病変」というフランスの論文の内容に、カドミウム電池工場で働く男女の労働者が歩行ができなくなり、エックス線で調べると骨に横断状のひびが見られたという、イタイイタイ病と同じ症状の患者がいることを見出した。吉岡教授はこれらの調査を総合して、イタイイタイ病の原因は神岡鉱山から流下してくるカドミウムであると推論した。
1968年、園田厚生大臣からイタイイタイ病に関する厚生省見解が発表された。「イタイイタイ病の本態は、カドミウムの慢性中毒により腎臓障害を生じ、次いで、骨軟化症をおこし、これに妊娠・授乳・内分泌の変調・老化および栄養としてのカルシウムなどの不足が診因となってイタイイタイ病という疾患を形成したものである。慢性中毒の原因物質として、患者発生地を汚染しているカドミウムについては、対照河川の河水およびその流域の水田土壌中に存在するカドミウム濃度と大差のない程度とみられる自然界に由来するもののほかは、神通川上流の三井金属鉱業株式会社神岡鉱業所の事業活動に伴って排出されたもの以外には見当たらない。」厚生省はイタイイタイ病についてこのような発表をした。
症状
イタイイタイ病というのは、主に35才過ぎから更年期の経産婦に、農村にありがちな腰、肩や膝の鈍い痛みとして始まる。大腿などに神経痛のような痛みを訴えることもあり、歩く際にはお尻を振りながらアヒルのような格好で歩くようになる。それでも、この頃の症状ならまだ歩くことが可能である。杖に頼っても歩けなくなるくらいになると、つまずいたり、転んだりしても簡単に骨が折れる。全くの病床生活を送らなければいけなくなる頃には、寝返りを打ったり、笑ったりというわずかな動作でも骨が折れ、このときに引き裂かれるような耐えがたい疼痛を訴える。全身に72カ所も骨折がみられたという記録もあるそうだ。脊髄が押しつぶされて身長が30センチも短くなった例もある。このようなひどい症状がありながら、意識は普通なのである。最後まで「痛い痛い」と苦しみあえぎながら、食べるものも食べられず、衰弱しきって他界するのである。この奇妙な病気に悩まされ、死んでいった人の数は、わかっているだけでも、戦後100名近いのではないかと推定されている。
イタイイタイ病がはじめてその名前を文献上に現わしたのは、本病の発見者であり、またその研究の推進者であった萩野昇、河野稔が連名で、昭和30年第17回日本臨床外科医会で発表した「イタイイタイ病(富山県風土病)」と題する報告においてである。本病自体はそれ以前かなり古くから富山県神通川流域の熊野、新保両地区付近に存在していたことは事実のようであり、現地で代々開業している萩野氏は、おそらく大正年間には同種の疾患があったのではないかと推定している。
この病気を荻野昇医師と協力して詳しく調べ始めた河野稔博士はイタイイタイ病について、次のように述べている。本病は30才前後の女性を徐々に冒し、最初は腰痛・背痛・肩関節痛・膝関節痛などを起こしたり、坐骨神経痛や上腕神経痛の疼痛を起こしたり、リュウマチや神経痛・神経炎などと区別がつきにくい。そのうち特有の歩行、すなわち、臀部を左右に振りつつ動揺性の歩行をなすようになり、いわゆるイタイイタイ病になったと患者も気が付く。事実、私も30年5月に下調査に赴き、リュウマチとして見せられた患者のうち10名がこの特有な歩行をする奇観に驚きを隠せなかった。また、この痛みの発する場所が特有で、地元の医師等は筋肉痛であるといい、また、筋肉リュウマチなどとの病名もつけられており、よく診察すると筋肉痛ではなく、骨膜から発する痛みである。すなわち、ずっと安静にして動かないでいると痛くなく、手足を動かしたり、呼吸運動をしたり、笑ったりすると、筋肉が動き、したがって、筋肉付着部の骨膜が牽引されて痛みを発することがわかった。したがって、これらの疼痛は一様でなく、激しく四肢を動かせば疼痛は裂くが如く、また、針を刺すが如く痛む。また、長時間の起立や歩行に際しては当然疼痛がくる。ただし、重症では呼吸運動やわずかな体の動きや笑い、話をすることでも疼痛がくる。このように日常生活で笑いや談話、呼吸運動でさえ疼痛があることは、本病がいかに、陰惨な症状を呈する疾患であるかがわかると思う。漸次、症状が進むと身長は脊髄の圧迫骨折のため著しく短縮する(10~30センチ)。数年の経過とともに起臥が不能になり、最後に骨の萎縮・脱灰が著名となり、些細の外力によって全身の骨に骨折を起こす。我々の剖検例では肋骨だけで28カ所に骨折があった。骨折のときには相当の疼痛があり、患者は自然にイタイイタイと呻き、そのために本病を指して、イタイイタイ病というようになったらしい。
体の所々に骨折が起こると、もう全く生ける屍であり、大小便もままならず、便器の交換時にも疼痛が激しいため、幼児の如くオムツを当て、著しく家族労働に影響を及ぼし、患者の多くは板の間に寝かされ(畳、布団などが腐食するため)、しかも内臓に著変がないため、存外臥床してからも長く生きている。栄養摂取不十分となると急激に衰弱して死に至る。大体、臥床してから1年くらい生ける屍状を続けるものもある。人は骨を包む骨膜に付着している筋肉の収縮と弛緩によって関節で動きがとれる。普通は骨と筋肉の強度はバランスがとれており、老いる際も双方がほぼ平行して低下することから、年をとっても手足を動かすごとに筋膜が痛むことはない。しかし、その一方が疾患により強度を保てなくなると事情は変わってくる。イタイイタイ病はその本態は骨軟化症であるから、次第に骨が軟らかく弱くなり、筋肉の収縮を支えられなくなってくる。その結果、筋肉の付着部の骨膜付近に生じるストレスが骨にひび割れを起こし、動くたびに痛みが起こってくる。ことに、下肢を動かす場合に大腿直筋・大腿内転筋などいくつもの筋肉の収縮と弛緩が必要となるが、これらのかなりの筋肉の一方は、恥骨、坐骨、腸骨などに、他方は大腿骨の大転子・小転子などに付着しているため、これらの部位の骨にひびが入り始める。このため患者は痛みが発しないよう、これらの筋肉をなるべく動かさないように一歩一歩踏み出す側に体を移動させ、体がねじれて、アヒルの歩行のように歩む。寝込むと、体で動くのは呼吸運動だけとなる。ここでも同様なことが生じる。呼吸は横隔膜の動きと肋骨間の筋肉の連動で行われる。その動きの中でも動きが比較的大きいのは下部の肋骨のため、まずその部位の肋間筋の付け根の部位にストレスがたまり、ひびができて、呼吸をするたびに、くしゃみや笑いをするたびに痛みを発することとなる、と考えられる。イタイイタイ病にはこのこのような症状が見られる。
裁判
参考文献
松波淳一「イタイイタイ病の記憶」(2002)