ガリア戦記2
出典: Jinkawiki
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ガリア戦記とは
カエサルのガリア遠征の記録。ケルト人、ゲルマン人に関する重要な史料となっている。 ローマの将軍カエサルは、前58年から51年まで、ローマ軍を率いてガリア(現在のフランス)に遠征した。このガリア遠征のときの戦いの記録を、彼自身が書いたとされるのが『ガリア戦記』である。たがいに争うケルト人部族(ガリア人)や、その争いに乗じてガリア進出をはかるゲルマン人部族との戦いと、前55,54年に行われたブリタニアへの上陸作戦の経緯が語られている。タキトゥスの『ゲルマニア』と並んで、ローマ時代のゲルマン社会を知る上での貴重な資料となっているばかりでなく、ラテン語の名文としても知られている。(後略)
『ガリア戦記』はなぜ書かれたか
『ガリア戦記』はラテン語の名文とされている。カエサルは単なる将軍、政治家ではなく、弁論に長け、自ら詩を書くなど文才があったことは確かである。しかし、彼がなぜこの書を書き、出版したのか、どのように書いたのかは古来さまざまな議論があったようだ。まず出版されたのは遠征の終わった前52年であったが、その原稿は遠征中に書いたという説と遠征が終わって一気に書いたとう説がある。どうやら後者の方が正しいらしいが、カエサルは戦いの状況を常に元老院ローマの支持者に報告するため常に行動記録を口述して手紙にしていたので、それらを材料にしたのであろう。それを公刊した意図は、この遠征を不当なものだと非難する声が元老院などにあったのに対して、戦闘の困難さを訴え、勝利にはたした将軍としての働きを明らかにするという、いってしまえばカエサルの自己宣伝と自己弁護のためであった。 そのため、カエサルにとって不都合なこと(例えばガリアの神殿の奉納物を略奪したとか、遠征で巨大な富を築いたとか)にはふれていない。しかし、その記述は正確で、戦闘の悲惨なありさまもかくさず記述している。客観性を持たせるためか、文章は一人称ではなく、“カエサルは・・・”という三人称で書かれている。そこにこの書の単なる自己宣伝にとどまらない、歴史の記述としての価値が認められている。 <主として、國原吉之助氏の講談社学術文庫版『ガリア戦記』の解説による>
Episode 馬上での口述筆記させたカエサル
『ガリア戦記』を読むと、それぞれの戦闘の経緯や状況が詳しく書かれていることに驚くが、もとの記録はどうやら戦場のカエサルの口述筆記にあったらしい。プルタルコスの『英雄伝』のカエサル伝にはこんな記事がある。 『すくなくとも、睡眠はたいてい車とか轎(かご)の中でとって休息時間を行動にあてたし、日中は、諸所の守備隊や町や陣営を巡視したが、そのときには、動く車の中で口述をそのまま筆記できる練習をつんだ奴隷を一人そばに坐らせ、また背後には剣をもった兵士を一人立たせておいた。・・・また、馬を乗りこなすことはカエサルには子供のときから易々たるものであった。 つまり、両手をうしろにまわして背中に組んだまま、全速力で馬を走らせるのをいつもやっていたのである。その遠征にあたっては、それに加えて馬に乗りながら手紙の文句を口述して、それを二人の書記が同時に書きとれるくらい、否、オッピウスのいうところでは、二人以上の書記が、なんとか書き取れるようにする練習をつんだのであった。なお、手紙を書いてローマ市内の友人たちと連絡し合う工夫をしたのは、カエサルがはじめてだといわれているが、それは用事が多く、ローマの町が広いため、緊急の事柄について直接会って話し合える機会を持てなかったからである。』 <プルタルコス/長谷川博隆訳『英雄伝』下 ちくま学芸文庫 p.195-196>
キーワード
- ガリア戦記
前58〜前51年のガリア遠征の記録(全8巻)を、カエサル自身が記述したもの。ラテン文学の模倣とされる簡潔な文体の名文。ガリアのケルト人征服の経過を知る貴重な資料となっている。また、ガリア人の状況やゲルマン社会の事情も伝えている。
- カエサル(シーザー)Caesar
前100頃〜前44 ローマの将軍、平民派の政治家。第一回三頭政治を始める。ガリアを平定し権力基盤を確立した。後にポンペイウスと対立して勝利し、終身のディクタトルに就任して権力を独占した。植民、徴税請負の廃止、太陽暦の採用などの事業を実施したが、共和党擁護者のブルートゥスらに暗殺された。
- ラテン文学
ラテン語で書かれた文学。前1C〜後2C、特にアウグストゥス時代が黄金時代。
参考文献
詳解 世界史用語辞典(1995) 三省堂編修所 三省堂 pp.30,34,109 世界史の窓 ガリア戦記 (http://www.y-history.net/appendix/wh0601-004.html)
-Aben