内村鑑三
出典: Jinkawiki
高崎藩士・内村宜之の長男として、江戸小石川に生まれる。明治7年、東京外国語学校(のち東京大学予備門)に入学。明治10年、札幌農学校第2期生として入学許可。東京外国語学校から札幌農学校にかけて太田(新渡戸)稲造、宮部金吾と同級。彼らと共に、明治11年、メソヂスト監督教会宣教師M・C・ハリスより受洗。卒業後、開拓使御用係(のち札幌県御用係)、農商務省農務局水産課に勤めるが、明治17年、役所を辞職し、同年11月、米国に私費留学する。1明治19年、アマスト大学にてJ・H・シーリー総長の感化により回心を体験する。これ以降、内村の行動は、福音主義信仰とそれから導き出される思想に一貫して基づくこととなる。帰国後、第一高等中学校在職中、教育勅語奉読式で「不敬事件」を起こし、職を辞す。この頃から旺盛な執筆活動を開始し、『基督信徒の慰』『求安録など主要な著作を著わす。明治30年、黒岩周六に招かれ『万朝報』英文蘭主筆となり、幸徳秋水、堺利彦らとともに社会評論家としても世間で名が知られるようになる。明治34)年に『万朝報』が結成した「理想団」には幹部として参加し、また、足尾鉱毒事件では鉱毒反対運動にかかわるなど、社会運動家としても活躍する。しかし、日露戦争を機に「非戦論」を展開し、明治36年に幸徳秋水、堺利彦らとともに『万朝報』を退社。内村の社会的活動はこの時期をピークとして徐々に身を潜め、それと反比例するかのように聖書に対する内在的な関心を深める。 信仰については、明治31年、『東京独立雑誌』を創刊(1900年7月まで)、それにかわり明治33年9月に『聖書之研究』を創刊。明治34年には『無教会』を創刊し(1902年8月まで)、無教会主義を創唱。生涯、平信徒として聖書の研究と執筆活動をつづけた。大正7年からは、キリスト再臨信仰に基づく再臨運動を開始。昭和5年3月28日、死去。この年の4月25日、『聖書之研究』は357号をもって終刊となる。