ポル・ポト政権2
出典: Jinkawiki
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ポル・ポト政権2
カンボジアにおいて、ポル=ポトを指導者とする急進的な共産主義・民族主義グループである赤色クメール(クメール=ルージュ)は、シハヌーク派と協力して、1975年4月に親米右派のロン=ノル政権を追いだし、カンボジアの実権を握り、国号を「民主カンプチア」とした。国家元首としてはシハヌークを戴いていたが、翌年には実権を奪い、シハヌークを軟禁状態において、ポル=ポトの独裁権力のもと、急進的な共産社会化が強行された。
ポル・ポト政府樹立
1975年4月17日、ポル=ポト派はついに首都プノンペンを制圧し、ロン=ノル政権を倒した。これは4月30日のサイゴン陥落に先立っており、ポル=ポト派はベトナムより先に革命を達成したことを誇った。ポル=ポト派は実権を握ったが、国家元首には国民に一定の人気のあるシハヌークをかつぎ、ポル=ポトは首相となった。しかし、シハヌークにはまもなく自宅軟禁状態にされ、ポル=ポト派の独裁政治が開始される。国号は翌76年、民主カンプチアとされた。ポル=ポトは民主カンプチアの首相となったが、国民の前には姿を現さず、対内的にはキュー=サンファン、対外的にはイエン=サリが表面で活動した。ポル=ポト自身は国内外のメディアに顔を出すことを避けたため、その実像はほとんど伝わらなかった。
ポル・ポトの虐殺
特にロン=ノル政権やシハヌーク派の官僚、教員やマスコミ関係者など知識人がまず標的にされたが、彼らに留まらず、プノンペンなどの都市住民の多数が農村に送られ、集団農場での労働に従事させられた。また移住に抵抗したものは強制収容所に送られ、社会的に不用なものとして次々と殺害された。ポル=ポト時代の虐殺の犠牲者数は正確な数字は判らないが、ある推計では3年9ヶ月で100万~170万という犠牲者が出たと言われている。
少数民族もその伝統的社会の維持は否定されて共同農場にかり出され、抵抗して殺害されることが多かった。かつてのチャンパー王国の末裔チャム人もこの時期に人口が半減したと言われる。また華僑は都市で商業に従事していたため、ポル=ポト派の憎悪の対象とされ、やはり人口が半減、またベトナム系住民の多くも犠牲になった。
参考文献
ポル・ポトーある悪夢の歴史(2008)山形浩生 白水社 ラルース 世界人物百科(2005)フランソワ・トレモリエール 株式会社原書房