第一次世界大戦

出典: Jinkawiki

2008年7月28日 (月) 00:39 の版; 最新版を表示
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目次

== 第一次世界大戦とは? ==

1914~18。帝国主義列強の植民地獲得をめぐる対立が引き起こした事件。ボスニアの都サラエヴォにおけるオーストリアの帝位継承者暗殺が引き金となる。ドイツ・オーストリアなど4国の同盟国と英米仏露など27国の連合国との戦争で、日本も日英同盟協約を名目に連合国側に参加、中国・太平洋のドイツ領を攻撃。パリ講和会議で締結されたヴェルサイユ条約で終結。元老井上馨は、第一次世界大戦の勃発を、日露戦争後の経済不況を打破し、アジアにおける植民地獲得のチャンスと考えて「天佑」と表現。[1]


 大戦の原因 

19世紀末20世紀初頭から1914年にいたる十数年のあいだ,世界の各地できな臭い紛争が続発した。ファショダ事件(1898)・米西戦争(1898)・義和団事変(1898~1900)・ボーア戦争(1899~1902)・日露戦争(1904~05)・二度のモロッコ危機(1905,11)・オーストリア=ハンガリー帝国のボスニア=ヘルツェゴヴィナの併合(1908)・イタリア=トルコ戦争(1911)・二つのバルカン戦争(1912~13)などがそれらで,最後に第一次世界大戦に拡大するサライェヴォ事件を迎えることになる。ここで,第一次世界大戦の原因を整理すると,建艦競争や3B政策で対立が先鋭化した英独関係,アルザス=ロレーヌ問題とモロッコ問題をめぐる独仏対立,オスマン=トルコ帝国の衰退を背景とするバルカンでのパン=ゲルマン主義とパン=スラヴ主義の角逐などをあげることができるが,第一次世界大戦は結局は,アフリカ分割や東アジア問題からでなく,「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカンから発火した。日露戦争に敗れたロシアが対外政策の重心をダーダネルス・ボスポラス両海峡に移したことにより,国際対立の焦点は東アジアからバルカンに移動した。1908年,オスマン=トルコ帝国では青年トルコ党が日露戦争の日本の勝利の刺激を受け,近代化をめざす革命をおこした際,その混乱に乗じオーストリアは,1878年のベルリン会議以来トルコの宗主権下にありながら,行政管理権のみを委ねられていたスラヴ民族の居住するボスニア=ヘルツェゴヴィナ2州に対して,その完全併合をトルコに認めさせた。同じとき,ブルガリアもオーストリアの了解をもとに,トルコからの完全独立を宣言した。この二つの出来事は日露戦争と1905年の革命の痛手からまだ回復していなかったロシアにとって,汎ゲルマン主義の挑戦であり,さらに周辺の独立国セルビアにとっても重大な脅威であった。サライェヴォ事件の伏線はここにあった。

 1914年6月28日に発生したボスニアの中心都市サライェヴォでのセルビアの1青年によるオーストリア帝位継承者フランツ=フェルディナンド夫妻の暗殺事件によって国際関係は極度に緊張した。オーストリアはドイツの全面的支援を受ける保障を固め,セルビアに最後通牒を送ったが,このときのドイツ帝国宰相ベートマン=ホルヴェクは,信頼していた顧問クリト=リーツラーの助言を尊重し,ドイツやオーストリアの国家的威信を守るため,セルビアに対して一種の戦争瀬戸際政策をとった。交渉は決裂し,7月28日にオーストリアがセルビアに対して宣戦を布告すると,このバルカンの局地戦争は,直ちに連鎖反応をひきおこした。セルビアを後援するロシアがオーストリアやドイツを牽制するため軍隊に総動員令を下すと,8月1日,ドイツはいち早くロシアとの開戦に踏み切り,ついで8月2日,ドイツは露仏同盟を締結しているフランスにも宣戦を布告した。ドイツ軍が北フランスに侵入するためベルギーの中立を蹂躙すると,イギリスはこれを開戦の理由にして,8月4日にドイツに宣戦布告した。こうして全面的なヨーロッパ戦争に拡大したのみでなく,8月23日に日本も日英同盟の誼を名目に対独戦争に参戦し,膠州湾のドイツの租借地青島の占領や太平洋上のドイツ領南洋群島の占領にむかった。[2]


 対立の構図 

○同盟国側

ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン=トルコ、ブルガリア

                       VS

○連合国側

イギリス、フランス、ロシア、日本、ポルトガル、イタリア、セルビア、ギリシャ、ルーマニアなど

○中立

オランダ、ベルギー、スペイン、ノルウェー、デンマーク、スウェーデン、スイス、アルバニア [3]


 第一次世界大戦の影響 

第一次世界大戦は、ヨーロッパの戦火の外側にいる日本には大戦景気をもたらし、明治末期からの不況と財政危機とをいっきょに吹きとばした。戦争によって、ヨーロッパ列強が後退したアジア市場には綿織物などの、また戦争景気のアメリカ市場には生糸などの輸出が激増し、貿易は大幅な輸出超過となって、1914(大正3)年に11億円の債務国であった日本は、1920(大正9)年には27億円以上の債権国になった。世界的な船舶不足のために、海運業・造船業は空前の好況となり、日本は世界第3位の海運国になり、いわゆる船成金がぞくぞくと生まれた。鉄鋼業では八幡製鉄所の拡張や満鉄の鞍山製鉄所の設立のほか、民間会社の設立があいついだ。薬品・染料・肥料などの分野では、ドイツからの輸入が途絶えたため、化学工業が勃興した。大戦前から発達しはじめていた電力業では、大規模な水力発電事業が展開され、猪苗代・東京間の長距離送電も成功し、電灯の農村部への普及や工業原動力の蒸気力から電力への転換が進んだ。また電気機械の国産化も進み、その結果、重化学工業は工業生産額のうち30%の比重を占めるようになった。工業の躍進によって、工業(工場)生産額は農業生産額を追い越した。工業労働者数は100万人を超え、重化学工業の発展を反映して男性労働者の増加が著しかった。しかし、空前の好況が資本家をうるおして成金を生み、一方では、物価の高騰で苦しむ多数の民衆が存在した。また、工業の飛躍的な発展に比較して、寄生地主制のもとで農業の発展は停滞していた。 [4]  と、いい影響をもたらしたことも記述されているので、必ずしも第一次世界大戦は日本に悪影響のみを与えたとは言い難い。上記のように日本が発展するためには第一次世界大戦を経なければならなかったのだろうか。

 出典 

[1]日本史B用語集 2007年 山川出版社

[2]第一次世界大戦 www.tabiken.com/history/doc/L/L021L100.HTM

[3]第59回 第一次世界大戦 www.uraken.net/rekishi/reki-eu59.html

[4]詳説 日本史 2006年 山川出版社 P.299~300


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