ベトナム戦争50
出典: Jinkawiki
=フランス・インドシナ戦争 第2次世界対戦が終わってインドシナ地方から日本の侵略軍が撤退したものの、フランスは弱体化しており、ただちに戻ってふたたび旧植民地インドシナで権利を主張することができなかった。インドシナ北部では、ホー・チ・ミン(1890-1969)の率いる政党、ヴェトミン(ヴェトナム独立同盟会)が、独立してヴェトナム民主共和国を宣言した。フランスは、ヴェトナムをフランス連合内、の自由国家として承認することに同意したが、交渉は長引いた。1946年、12月、ヴェトミン軍はフランスの守備隊を攻撃し、その後何年ものあいだ、地方でさかんにゲリラ活動を繰り広げた。1949.バオダイ皇帝(1913-97)を首班とするヴェトナム臨時政府が樹立されて、フランスの承認を受け、1950年にはアメリカに承認された。共産党が支配するヴェトミンは、残存するフランスの権威いっさい認めず、ヴェトナムと中国の国境沿いにあるフランス軍の先端基地を攻撃した。ヴェトミンは、中国からかなりの軍事援助を受けていた。1951年に、ヴェトミンはラオスおよびカンボジアの共産党勢力と共同戦線を張り、いっそう激しく攻勢に出た。1954年3月13日、彼らの率いるボー・グエン・ザップ将軍(1912-2013)は、ヴェトナム北西部のディエンビエフーで戦略的に重要なフランス軍の要塞を攻撃した。ザップは56日にわたって包囲を続け、ヴェトミン軍は大砲と迫撃砲を使って絶え間ない攻勢をかけ、1954年5月7日、弾薬がつきたフランス守備隊はついに降伏した。そのあいだ、ジュネーヴの国際会議がはたらきかけて協定を作り、それにしたがって休戦し、フランス軍は撤退することになった。ヴェトミンは北緯17度線以北で政府を樹立し、非共産党のヴェトナムのほうは境界線の南側に政権を樹立した。この戦争はフランス国内で評判が悪く、戦争が終わったときは、敗北して東南アジアにおける影響力を失ったにもかかわらず、フランス国民は胸をなでおろした。1954年7月、ヴェトナムは、ヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム)とヴェトナム共和国(南ヴェトナム)にわかれた。 ホー・チ・ミン ヴェトナムの政治家。少年時代から反仏運動に参加した。
バオダイ 漢字では保大。ヴェトナムの阮朝最後の皇帝。
ジュネーヴ会議 1954年朝鮮統一問題とインドシナ戦争終結問題を討議するため開催。ジュネーヴ協定が成立して成果を上げた。
参考文献 『世界戦争事典』2014 ジョージ・C・コーン 河出書房新社 『世界史事典』1995 平凡社教育産業センター 平凡社