水俣病10
出典: Jinkawiki
1.水俣病について
水俣病(みなまたびょう)は、メチル水銀化合物(有機水銀)による中毒性中枢神経系疾患のうち、産業活動が発生源となり、同物質が環境に排出され、食物連鎖によってヒトが経口摂取して集団発生した場合に言う。1956年(昭和31年)5月1日に熊本県水俣市にて公式発見され、1957年(昭和32年)に発生地の名称から命名された。その後、類似の公害病にも命名されている。 また、熊本県水俣市にあるチッソ水俣工場は、工業排水を水俣湾に排出していたが、これに含まれていたメチル水銀が魚介類の食物連鎖によって生物濃縮し、これらの魚介類が汚染されていると知らずに摂取した不知火海沿岸の熊本県および鹿児島県の住民の一部に見られた「メチル水銀中毒症」である。環境汚染の食物連鎖で起きた人類史上最初の病気である。
2.発見までの経緯
既に1942年頃から、水俣病らしき症例が見られたとされる。1952年頃には水俣湾周辺の漁村地区を中心に、猫・カラスなどの不審死が多数発生し、同時に特異な神経症状を呈して死亡する住民がみられるようになった(このころは「猫踊り病」と呼ばれていた)。 1946年:日本窒素がアセトアルデヒド、酢酸工場の排水を無処理で水俣湾へ排出。 1949年頃:水俣湾でタイ、エビ、イワシ、タコなどが獲れなくなる。 1952年:熊本県水俣で最も早期の認定胎児性患者が出生。ただし認定は20年後。 1953年:熊本県水俣湾で魚が浮上し、ネコの狂死が相次ぐ。以後、急増。 1954年:8月1日付熊本日日新聞で、ネコの狂死を初報道。 水俣病患者で最古の症例とされるのは、1953年当時5歳11か月だった女児が発症した例である[注 6]が、患者発生が顕在化したのは1956年に入ってからである。新日本窒素肥料水俣工場附属病院長の細川一は、新奇な疾患が多発していることに気付き、1956年5月1日、「原因不明の中枢神経疾患」として5例の患者を水俣保健所に報告した。この日が水俣病公式発見の日とされる。
3.原因について
原因物質は容易に確定されなかった。1958年7月時点では、熊本大学医学部研究班は原因物質としてマンガン、セレン、タリウム等を疑っていた。当時、水銀は疑われておらず、また前処理段階の加熱で蒸発しており検出は不可能であった。しかも有機水銀を正確に分析し物質中の含有量を測定する技術は存在していなかった。しかし、翌年(1959年)7月、熊本大学水俣病研究班は、原因物質は有機水銀だという発表を行った(1959年10月、水俣病発見者細川一院長は、院内ネコ実験により、アセトアルデヒド酢酸製造工場排水を投与した猫が水俣病を発症していることを確認し、工場責任者に報告している(この時点ではメチル水銀の抽出までには至っていない)。しかし、工場の責任者は実験結果を公表することを禁じた。これは、排水口周辺の海底に堆積するヘドロや魚介類から水銀が検出されたことによる。公式見解として、メチル水銀化合物 と断定したのは、1968年9月26日であった。これは、水銀中毒であることは確かだが、当時、数ある有機水銀のうちのメチル水銀が原因であるという確証が得られなかったことに起因する。この物質がメチル水銀であったことはすぐに判明したものの、初期の曖昧な内容が東大医学部などの反論を招いた。そして、それに対する再反論作成の必要に迫られるなどして原因特定の遅れを招くことになった為である。なお、当時の文献や、それを引用した文献では、原因物質は単に有機水銀と表記されていることがある。
4.裁判について
1967年、新潟水俣病の患者は昭和電工を相手取り、新潟地方裁判所に損害賠償を提訴した(新潟水俣病第一次訴訟)。四大公害裁判の始まりである。政府統一見解後の1969年6月14日には、熊本水俣病患者・家族のうち112人がチッソを被告として、熊本地裁に損害賠償請求訴訟(熊本水俣病第一次訴訟)を提起した。 1969年:公害被害者全国大会開催。水俣病、イタイイタイ病、三池鉱山の一酸化炭素中毒、森永ヒ素ミルク中毒、カネミ油症などの被害者代表百数十人が集まる。 1970年:大阪厚生年金会館で行われたチッソ株主総会に、白装束の患者(一次訴訟原告家族)らが、交渉を拒みつづけたチッソの社長に直接会うために、一株株主として参加した。大阪・水俣病を告発する会発足。 1971年、新潟水俣病一次訴訟の判決があり、昭和電工は有害なメチル水銀を阿賀野川に排出して、住民にメチル水銀中毒を発生させた過失責任があるとして、原告勝訴の判決が下された。これは、公害による住民の健康被害の発生に対して、企業の過失責任を前提とする損害賠償を認めた画期的な判決となった。 1971年:水俣病患者が新たに16人認定される。患者総数150人、うち死者48人。 1973年3月20日には、熊本水俣病第一次訴訟に対しても原告勝訴の判決が下された。すでに熊本県で水俣病が発生したあとに起きた新潟水俣病の場合と異なり、熊本での水俣病の発生は世界でもはじめての出来事であった。そのため、熊本第一次訴訟で被告のチッソは「工場内でのメチル水銀の副生やその廃液による健康被害は予見不可能であり、したがって過失責任はない」と主張していた。判決はこれについても、化学工場が廃水を放流する際には、地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有するとして、公害による健康被害の防止についての企業の責任を明確にした。 1973年:環境庁が水銀値25ppm以上の底質(海底や川底)はすべて除去することを決める。これに基づき水俣湾の汚泥除去と埋め立てが行われる。 1973年:水俣市の水俣病認定患者が自殺。
5.その後について
政府が発病と工場廃水の因果関係を認めたのは1968年である。1968年9月26日、厚生省は、熊本における水俣病は新日本窒素肥料水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因であると発表した。同時に、科学技術庁は新潟有機水銀中毒について、昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀を含む工場廃液がその原因であると発表した。この2つを政府統一見解としたが、この発表の前の同年5月に新日窒水俣工場はアセトアルデヒドの製造を終了している。このとき熊本水俣病が最初に報告されてからすでに12年が経過していた。なお、厚生省の発表においては、熊本水俣病患者の発生は1960年で終わり、原因企業と被害者の間では1959年12月に和解が成立しているなどとして、水俣病問題はすでに終結したものとしていたが、その後の展開から見てもこれは妥当な判断であったとは言い難い。事実、国は水俣病発生の責任を認めず、原告と国との裁判はその後も続いた。国は1990年に出された裁判所の和解勧告(9月に東京地方裁判所が、10月に熊本地方裁判所と福岡地方裁判所が相次いで同じ趣旨の勧告を出す)を拒否しており、和解に転じるのは1996年のことである。また、原告で和解を拒否した水俣病関西訴訟の裁判は、上記のように、2004年10月まで続いた。
引用・文献資料https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E4%BF%A3%E7%97%85#水俣病の発見と裁判