水俣病10

出典: Jinkawiki

2018年1月27日 (土) 20:51 の版; 最新版を表示
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1.水俣病について

水俣病は、環境汚染の食物連鎖で起きた人類史上最初の病気である。メチル水銀化合物(有機水銀)による中毒性中枢神経系疾患のうち、産業活動が発生源となり、同物質が環境に排出され、食物連鎖によってヒトが経口摂取して集団発生したときにいう。1956年(昭和31年)5月1日に熊本県水俣市にて公式発見され、1957年(昭和32年)に発生地の名称から命名された。その後、類似の公害病にも命名されている。また、熊本県水俣市にあるチッソ水俣工場は、工業排水を水俣湾に排出していたが、これに含まれていたメチル水銀が魚介類の食物連鎖によって生物濃縮し、これらの魚介類が汚染されていると知らずに摂取した不知火海沿岸の熊本県および鹿児島県の住民の一部に見られた「メチル水銀中毒症」である。


2.発見までの経緯

1946年:日本窒素がアセトアルデヒド、酢酸工場の排水を無処理で水俣湾へ排出。 1949年頃:水俣湾でタイ、エビ、イワシ、タコなどが獲れなくなる。 1952年:熊本県水俣で最も早期の認定胎児性患者が出生。ただし認定は20年後。 1953年:熊本県水俣湾で魚が浮上し、ネコの狂死が相次ぐ。以後、急増。 1954年:8月1日付熊本日日新聞で、ネコの狂死を初報道。 水俣病患者発生が顕在化したのは1956年に入ってからである。新日本窒素肥料水俣工場附属病院長の細川一は、新奇な疾患が多発していることに気付き、1956年5月1日、「原因不明の中枢神経疾患」として患者を水俣保健所に報告した。この日が水俣病公式発見の日とされる。


3.原因について

原因物質は容易に確定されなかった。1958年7月時点では、当時、水銀は疑われておらず、熊本大学医学部研究班は原因物質としてマンガン、セレン、タリウム等を疑っていた。有機水銀を正確に分析し物質中の含有量を測定する技術は存在していなかったのだ。翌年(1959年)7月、熊本大学水俣病研究班は、原因物質は有機水銀だという発表を行った。しかし、工場の責任者は実験結果を公表することを禁じた。これは、排水口周辺の海底に堆積するヘドロや魚介類から水銀が検出されたことによる。公式見解として、メチル水銀化合物 と断定したのは、1968年9月26日であった。これは、水銀中毒であることは確かだが、当時、数ある有機水銀のうちのメチル水銀が原因であるという確証が得られなかったことに起因する。この物質がメチル水銀であったことはすぐに判明したものの、それに対する再反論作成の必要に迫られるなどして原因特定の遅れを招くことになった為である。


5.その後について

政府が発病と工場廃水の因果関係を認めたのは1968年である。1968年9月26日、厚生省は、熊本における水俣病は新日本窒素肥料水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因であるということ。また、科学技術庁は新潟有機水銀中毒について、昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀を含む工場廃液がその原因であることを同時に発表した。このとき熊本水俣病が最初に報告されてからすでに12年が経過していた。また、国は水俣病発生の責任を認めず、原告と国との裁判はその後も続いた。国は1990年に出された裁判所の和解勧告を拒否しており、和解に転じるのは1996年のことである。また、原告で和解を拒否した水俣病関西訴訟の裁判は2004年10月まで続いたのである。

引用・文献資料https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E4%BF%A3%E7%97%85#水俣病の発見と裁判


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