ユーゴ紛争
出典: Jinkawiki
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ユーゴ紛争の背景
ユーゴスラヴィアとは
「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言葉、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」という表現は、旧ユーゴ連邦を語る際に必ずと言って良い程に引き合いに出されたものである。 「七つの国境」とは、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、アルバニア、イタリアとの国境である。 「六つの共和国」とは、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアである。このうちセルビアには、ヴォイヴォディナとコソボという二つの自治州が存在する。 「五つの民族」とは、当初は規模の順に、セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人、マケドニア人、モンテネグロ人であったが、1963年に第3位の規模の民族としてムスリム人(ボスニア人)が加えられて、民族の数は6となった。いずれも南スラヴ人に属するが、他にアルバニア人やマジャール人(ハンガリー人)などの少数民族もいた。 「四つの言語」とは、セルビア語、クロアチア語、スロヴェニア語、マケドニア語である。セルビア語とクロアチア語は非常に似ており、かつてはセルビア・クロアチア語として単一の言語とされることもあった。現在は、以前のセルビア・クロアチア語からボスニア語とモンテネグロ語も生まれている。 「三つの宗教」とは、ローマ・カトリック、東方正教、イスラム教である。非常に大まかであるが、ローマ・カトリック教徒にはクロアチア人、スロヴェニア人、東方正教にはセルビア人、マケドニア人、モンテネグロ人、イスラム教徒にはムスリム人が多い。 「二つの文字」とは、ラテン文字とキリル文字である。言語との対応関係は、クロアチア語とスロヴェニア語がラテン文字で、セルビア語とマケドニア語がキリル文字で表されることが多いが、セルビア語はラテン表記されることも多い。 「一つの国家」とは、旧ユーゴ連邦ことユーゴスラヴィア社会主義共和国である。現在では、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6ヶ国に分裂している。
ユーゴ王国の建国
ユーゴススラヴィア王国建国の淵源は南スラヴ統一主義に求めることが出来る。南スラヴ統一主義とは、南スラヴに属するセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人らが統一国家を建国するという思想や運動である。南スラヴ統一主義は、セルビア人においてもクロアチア人においても主張されたが、その内容は異なっていた。セルビア人による南スラヴ統一主義は、1878年に独立したセルビア王国を中心とした南スラヴ統一国家の建国を目的としていたのに対して、クロアチア人の南スラヴ統一主義の目的は各民族の平等な統一国家であった。だが、クロアチア人は自前の国家、民族の政治的中心を持たず、その主張が実現する可能性は低かった。 ユーゴ王国の基礎となったのは、第一次世界大戦中の1917年7月に出されたコルフ宣言である。アドリア南海部のコルフ島で、セルビア王国亡命政府首相パシッチとクロアチア人代表のトルムビッチが会談した結果、第一次世界大戦後の南スラヴ人の統一国家建国が宣言された。この会談では両者の意見が対立し、コルフ宣言では具体的な国家形態に関する合意が公にされることは無かった。1918年12月に建国された統一国家の名称は「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」となった。この正式名称は長過ぎるため、当初から通称として、「南スラヴ人の土地」を現地の言葉で意味する「ユーゴスラヴィア」と呼ばれたものの、この国名こそが既に新国家の求心力の欠如を明確に示していたのである。国家形態を論じるべき憲法制定会議では、クロアチア人議員が審議をボイコットした為に、旧セルビア王国中心の主権国家が生まれた。
初期の事件と混乱
ユーゴ王国では北部は経済的先進地域、南部は後進地域と経済的な格差があったところに、民族問題が絡み、不安定な政治情勢が続いた。1928年6月には、国会内でセルビア人議員がクロアチア人議員に発砲し、それが原因でクロアチア人の政治リーダー、ラディッチが死亡するという事件も生じた。国王アレクサンダル1世は、混乱収拾策として1929年1月に国王独裁を宣言し、10月に国名を正式に「ユーゴスラヴィア王国」に改称した。また、1930年代の大恐慌の影響により経済状況が深刻化していた中で、彼は1931年9月に立憲制を復活させて改めて国家統合を進めようとしていた。だが、1934年10月、彼はフランス訪問の直後に内部マケドニア革命組織のメンバーによってマルセイユで暗殺された。 混乱が続く中でユーゴ王国政府が打ち出した方策はクロアチア人への譲歩であったが、それが他の民族の不満を高めていく。この頃、1939年9月に、ドイツ軍のポーランド領侵攻をもって第二次世界大戦が始まった。 ドイツはユーゴ王国については、1940年9月に結成された日独伊三国軍事同盟への参加を迫った。同年11月のハンガリー、ルーマニアに続いて、ユーゴ王国は1941年3月にブルガリアと共に三国同盟への加盟調印を行った。しかし直後にクーデターが生じ、加盟の決定が覆されたのである。ドイツはユーゴ王国への攻撃を始め、同時にイタリア、ハンガリー、ブルガリアもユーゴ王国領に進撃していった。
チトーによる政治
チトーの登場
ユーゴ王国は1941年4月17日にドイツに降伏し、国王ペタル2世と政府官僚は亡命した。ユーゴ王国領は、ドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリア各地の支配地、そしてクロアチア独立国に分かれた。 クロアチア独立国は極右組織ウスタシャによって支配されていた。それを後押ししていたのは、最初はイタリア、その後にドイツである。他方で、各地で占領行政に対する抵抗運動が起きていた。第二次世界大戦中の旧ユーゴ王国領では、旧ユーゴ王国軍残党による右派組織チュニトク、ユーゴ共産党の武力組織パルチザン部隊、それとウスタシャの間で三つ巴の内戦が行われていき、これらの犠牲者は100万人を超えるともされる。内戦を勝ち抜いたのはパルチザン部隊で、それを率いていたのが、両親をクロアチア人、スロヴェニア人とするチトーである。 チトーは1942年11月に第一回、翌年11月に第二回のユーゴ人民解放ファシスト会議の大会を開催して臨時政府を樹立、解放地域を確実に拡大していった。1945年3月に亡命政府と共に連立政権を結成した後、チトーは11月の憲法制定議会選挙での圧勝という結果を受けて、王政を正式に廃止して「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国」の樹立を宣言したのである。
独自の社会主義路線へ
ユーゴは建国まもない1948年に、国際関係の乱気流に巻き込まれてしまう。ソ連共産党の独裁者だったスターリンは当時、始まったばかりの冷戦構造の中で、「東側」の社会主義陣営を圧倒的な力をもって率いる盟主を標榜していた。そのスターリンとチトーの間で、路線対立が表面化したのだ。 ユーゴ共産党は、社会主義陣営の統轄組織コミンフォルムから除名されてしまう。そこでチトーは、社会主義国でありながら、安全保障の面では東西のどちらの陣営にも属さない「非同盟」国家としてユーゴを切り盛りしていく路線を選んだ。 経済面でも、チトーのユーゴは独自路線を打ち出した。市場主義を一定の範囲で導入し、労働者による「自主管理」の社会主義を掲げた。 表向きは、一見すると自由主義にすら思えるような政治体制だった。しかし現実には、ユーゴスラヴィア国内では、共産党や、それを率いるチトーに対する異論はいっさい許されない独裁政治が敷かれた。
ミシェロビッチの政治
果たした役割
115p
参考文献 月村太郎(2006)『ユーゴ内戦―政治リーダーと民主主義』東京大学出版 梅原季哉(2015)『戦火のサラエボ100年史 「民族浄化」もう一つの真実』朝日新聞出版