イラン・イラク戦争4
出典: Jinkawiki
1.イラン=イラク戦争 1980~88年、イラン革命直後のイランとサダム=フセイン独裁下のイラクの戦争。宗教的対立、石油資源をめぐる対立が背景にあった。 1980年9月から88年8月まで9年間にわたって続いた、イラン=イスラーム共和国とイラクの戦争。
2.戦争の原因
ペルシア湾岸の石油資源をめぐる対立、以前から続いていたシャトル=アラブ川をめぐる領土対立などがあげられるが、イラクのサダム=フセイン大統領が前年に始まったイラン革命の主体となったシーア派のイスラーム原理主義が、シーア派が国民の半数を占めるイラクに及ぶことを恐れたものと思われる。バース党のサダム=フセイン政権は、北部のクルド人と南部のシーア派を抑圧して政権を維持していた。
3.戦争の経緯
戦闘は始めイラクが優勢であったが、隣国シリアがイランを支援して石油パイプラインを閉鎖したため、イラクは劣勢に陥り、イラン軍が国境を越えてバスラに迫った。アメリカはイラン革命の輸出を恐れたため、イラクに軍事援助を行った。またサダム=フセイン大統領は巧みな外交によってソ連からも武器援助を受けた(当時はソ連はアフガニスタン侵攻を行っていた)。さらにイラクはペルシア湾のイラン原油積出港のカーグ島を空爆、石油危機を警戒した国連が停戦調停に乗り出し、88年に停戦が実現した。直後にイランのホメイニ大統領が死去し、イラン革命の影響が消滅した。イラクのサダム=フセイン大統領は戦争で疲弊したのもかかわらず、膨大なアメリカの軍事援助を受けて独裁権力を強めることとなった。 イラン=イラク戦争でサダム=フセインは、国内のシーア派がイランに通じているとして厳しく弾圧、また独立の姿勢を示しているクルド人勢力に対しても化学兵器を使用するなどして弾圧した。これらはイラク戦争後、サダム=フセイン政権が崩壊した後に明るみに出て、サダム=フセインを断罪する要因となっている。
4.アメリカのイラク支援とその後
イラン=イラク戦争でアメリカはイラクのサダム=フセイン政権を支援し、武器を提供した。クウェート侵攻ではその武器が使用されたと言われている。 イラン=イラク戦争が起こると、イラン革命でアメリカ大使館員人質事件など被害を受けたアメリカ(カーター政権。1981年からレーガン政権)は、シーア派原理主義政権に敵対するイラクのサダム=フセイン政権を支持し、大量の武器、資金の援助を行った。サダム=フセイン政権はアメリカによって維持されたとも言われる。イラン=イラク戦争後、多額の負債を抱えたイラクのサダム=フセイン政権は1990年8月、クウェートに侵攻しその石油資源を狙うが、フセインは事前に駐イラク・アメリカ大使と会い、アメリカの黙認を取り付けたと言われている。アメリカ側はその事実を否定しているが、「アメリカに育てられた」といわれるサダム=フセイン政権がアメリカの黙認を期待したことは考えられる。しかしブッシュ(G.H.W=父)大統領は、冷戦の終結の世界戦略の中で、アメリカは国際平和や秩序を乱す国家の存在を許さないという姿勢を強めていたため、サダム=フセインの身勝手を認めるわけにはいかず、1991年1月、湾岸戦争に踏み切った。ここではアメリカはイラン=イラク戦争の時と異なりイラク制裁を実行し、クェートを解放したが、イラク本土には侵攻せず、サダム=フセイン政権打倒が可能であったにもかかわらずその存続を許した。それはアメリカの負い目があったことをうかがわせることであり、そのツケは、2003年のイラク戦争で、ブッシュ(G.W.=子)大統領が払わされる格好となった。
参考文献
酒井啓子『イラクとアメリカ』岩波新書 2002