原子爆弾7
出典: Jinkawiki
第二次世界大戦末期の1942年からアメリカが製造を開始し、完成直後の45年8月、広島・長崎で使用した核兵器。あわせて約30万の犠牲を出し、日本は無条件降伏を受理する。
20世紀に入ってアインシュタインらによって急速に進められた原子物理学は、戦争という時代の要請によって、一気に原子爆弾という悪魔的な大量破壊兵器を人類にもたらしてしまった。原子爆弾の出現は近代科学の行き着いたところとして、科学のあり方、科学者の倫理という大きな問題を突きつけることとなった。原爆の出現に至るステップは複雑であるが、1938年に核分裂が発見されてからわずか7年で実際に使用されてしまったという開発の速さは、科学者の純粋な研究と、国家権力がそれを戦争に利用しようとする思惑との結果であったことは間違いない。アメリカで原爆の開発にあたった学者の多くは、ヨーロッパのファシズムやユダヤ人迫害を避けて亡命した人々であった。ナチスドイツの手で核兵器が実用化される前に成功させなければならないというのが彼らの使命と考えていたのだった。
~アメリカの原子爆弾開発~ アメリカのF=ローズヴェルト大統領は、1942年6月、原爆製造計画であるマンハッタン計画に着手し、トルーマン大統領がその実用化を45年7月の連合国首脳会議であるポツダム会談のときに掌握した。大統領は密かに日本への投下をねらい、日本がポツダム宣言を受諾しないことを確かめ、8月6日と9日に連続して広島・長崎に投下した。この新型爆弾は、両市を破壊し、多数の犠牲を出した。日本政府は8月14日日にポツダム宣言を受諾し、戦争が終わった。
~広島・長崎への投下~
この広島・長崎への原爆投下はアメリカ大統領トルーマンが決断したことであったが、その理由はなおも抵抗を続ける日本に対し、上陸作戦を実行すれば100万もの犠牲者が出ることが想定されたので、戦争を終わらせるためにはやむを得なかったと主張されている。しかし、原爆の使用が人道的に許されるのかは批判が多い。またアメリカ軍の判断も日本を敗戦に追い込むより、戦後のソ連との対立を見込み、ソ連よりも先に原爆を開発し、使用しておくことが必要だったという理由が大きかったともされている。
いずれにせよ、人類最初の核兵器の使用であり、戦闘員による戦争の枠を遙かに超え、一瞬のうちに数万の人命を奪う、戦略目的の大量破壊兵器の使用が最初におこなわれたのだった。
~戦後アメリカの核開発~
第二次世界大戦後、1949年にソ連が原爆実験に成功したことから、にわかに核兵器開発競争が激化し、1951年から、ネバダに核実験場を設けたアメリカの核実験が盛んに行われるようになった。 → 核兵器開発競争
<参考文献>
原子爆弾―その理論と歴史 (ブルーバックス) 新書 山田克哉 1996