オイルショック
出典: Jinkawiki
オイルショックとは1973年と1979年の2回にわたって起きた石油の供給危機と石油価格の高騰により発生した深刻な経済混乱のことをいう。 1973年に起きたものを第1次オイルショック、1979年に起きたものを第2次オイルショックと言う。
第1次オイルショックとその背景
オイルショックはイスラエルとアラヴその間で起こった第4次中東戦争中に行われた「石油戦略」によって発生した。 中東戦争とは以下のようなものである。 地中海東の地のパレスチナにおいて第1次世界大戦中のイギリスのしたフサイン=マクマホン協定・バルフォア宣言・サイクス=ピコ協定に挙げられるような矛盾した外交政策が原因で大戦後にユダヤ人がこの地に移入し、もともとこの地にいたアラヴ人と対立が激化した。 そして第2次世界大戦のイギリスの委任統治(第一次大戦後、国際連盟の委任のもとに、戦勝国が敗戦国の植民地などに対して行った統治。Yahoo Japan 大辞泉より引用)終了後の処理でパレスチナ戦争(第1次中東戦争)が勃発した。 またこの時の処理をパレスチナ分割案(パレスチナをユダヤ・アラヴ両国家に分割するというもの。)と言う。 つまりこの第1次中東戦争は、アラヴ側がこの案を拒否したのに対しユダヤ側がこれを受け入れて建国したために起きたものである。 その後起きた第4次中東戦争でのOAPEC(アラヴ石油輸出国機構。OPEC加盟国のうち反イスラエルのアラヴの産油国による同盟を指す)がした原油の生産削減、OPEC(石油輸出機構)の石油価格の引き上げ、さらにアラヴ産油国によるイスラエル支援国に対しての石油の禁輸措置、これらの石油を武器とした中東戦争を支援する「石油戦略」によって第1次オイルショックが発生した。
第2次オイルショックとその背景
第2次オイルショックはイラン革命による混乱によってイランの石油輸出が停滞し、その結果石油価格が急激な高騰したために起きた。 またイラン革命とは、国王のパフレヴィー2世の親米・独裁政治に対して起こった革命である。 パリに亡命していたシーア派の最高指導者ホメイニが指導者となった。イスラム教に基づく共和国を樹立。イスラム原理主義(イスラム世界の西欧化を否定し、原点に帰ってイスラム法の実践のもとに、伝統の純化をはかろうとする運動。Yahoo japan 大辞林より引用)を掲げて、強烈な反米路線をとる新政権を作った。対外的には反ソも明確にして、アラヴ諸国とも対立した。