池田屋事件
出典: Jinkawiki
- 池田屋事件 (1864年)
新撰組が京都三条河原町の池田屋に集合した尊攘派を急襲、二十数名を殺傷・捕縛した事件。また、新撰組の名が世に広まるきっかけとなった事件でもある。
- 概要
浪士らはまず、新撰組屯所を襲って古高を奪還した上、8・18の政変をどんでん返しにするクーデーターの手筈に熱中していた。中川宮、松平容保を暗殺し、御所に火をつけ、みかどを長州に連れて行こうと計画していたのだ。そして、池田屋と四国屋に出入りしているとの情報が新撰組に入ったため、京都守護職と京都所司代にも応援を頼み、浪士らを全て捕らえようとした。池田屋には近藤らが、四国屋には土方らが乗り込んだ。しかし、四国屋には浪士がいなかったので、土方組は引き返して池田屋に来た。記録によると、池田屋で討ち取った、浪士七人、負傷四人、召し捕らえ23人。その他会津藩の手で、四人、召し取り、1人討ち取り、桑名ハンで1人召し取った。新撰組では、負傷二人、尚会津、桑名、彦根班兵で死者、負傷者も出ているところを見ると、市中でも闘争が行なわれたのだろう。(前代未聞の珍事)と「官武通紀」は書いている。
- 背景
池田や事件の背後にあったものは、もはや攘夷を通り越した倒幕である。 外国との貿易が始まり、品不足、物価上昇、金の海外流出など経済混乱が起こり、外国人殺傷事件が相次ぎ、尊王攘夷運動が高まった。幕府は危機を乗り越えるため、和宮降嫁などの公武合体策を進めるが、かえって尊攘派の反駁運動を刺激してしまう。公武合体を念願とした守護職松平容保が、徹底的な弾圧を加えたのは当然であり、志を同じくする近藤勇の新撰組がその手足となって働いたのも、また当然であった。それは思想と思想、力と力の激突であって、善悪の問題ではなかったのだ。
- 参考文献
2005年NEK大河ドラマ「新撰組」
「日本の歴史」小学館 児玉幸多(監修)
日本史用語集 全国歴史教育研究協議会(編) 山川出版
超速日本史の流れ 竹内陸泰 ブックマン社
日本の歴史〈19〉開国と攘夷 小西 四郎 中公文庫