八州廻り
出典: Jinkawiki
正式名称を関東取締出役という。1805(文化二)年、関東取締出役(通称八州廻り)が創設され、関代官の手付・手代の中から選任され、勘定奉行直属下に編成された。最初八名で二人一組となって、水戸藩領や川越藩領などを除く関八州を御料・私領の別なくして廻村して、無宿や博徒らの取締にあたった。 そんな通称八州廻りの大きな問題は、道案内との馴れ合いにあった。無宿や悪党を召し捕らえるときには道案内が必要不可欠であったが、彼らはご威光を笠に着て長脇差を帯した博徒から「ふせぎ」と唱える金を貰った。また、風聞で召し捕らえる場合もあり、口書(検使役人が作成した調書)を偽って作成したり、恨みを持つ者へ難儀をかけることもあった。出役が囚人を吟味取り調べする際に、宿方に長く逗留するために、囚人番の諸入用が村々の重い負担となった。また、八名の出役の廻村による取り締まりにも限界があり、1827(文政一〇)年、幕府は関東取締出役の権限をいまでいう治安警察の職域に限定せず、民政面にまで拡大した。数カ所を集めて小組合とし、小組合を集めて数十カ村規模の大組合を組織して取締組合の一単位とした。小組合には小惣代、大組合には大惣代、取締組合の中心となる町村を寄場と呼び、寄せ場には寄せ場役人をおき、彼らが組合村の運営にあたった。また、幕府は積極的に凶状持ちのやくざを取り込み、取り締まりの手先とした。組合村結成の意図は、取締出役の活動に村方を全面的に協力させるとともに、犯人逮捕とその護送に要する費用を組み合い村負担としたことである。
享和以来新聞記
これは上野国の森村新蔵が収集した記録集の一つで、この巻一(森村恒之家文書)は、文政の取締改革の理念を知ることができる逐条解説書である。ここには文政取締改革の教諭のために関東取締出役が廻村して、改革の趣意を教諭したことが記録されている。 改革組合村議定書の四〇条目の主なものとしては、第一に、公儀法度の遵守がある。逐条解説書ではさらに解説を加え、家職を第一に教諭し、孝を尽くし目上の人を敬い、悪事を禁じて身を慎み、争いなきために法度があると教諭している。第二に、百姓への勧農教諭である。年貢を納めることが百姓の根本であり、村役人は百姓が商人に移らないようの勧農を第一に心掛けるよう諭している。第九条では博奕を禁止し、二六条では無宿を帰農させることを教諭しているまた第二七条では、無宿へ村役人などが異見し、それでも言うことを聞かない場合には、関東取締出役が厳しく教諭し、それでも改心しない場合は帳外にして差し押さえ、聴取や出役へ召し連れるよう説諭している。第三に、若者組仲間の禁止を規定している。これはゆすりなどの行為を未然に防ごうとしていたと思われる。 以上のように、文政取締改革の理念は身分統制・風俗取締にあり、農民を教諭することにあったといえる。そしてこれらの改革によって権力に取り込まれたのである。
国定忠治
幕府の無宿者対策が強化されていくことに最後まで徹底抗戦したのが、上州を代表するヤクザ、国定忠治であった。忠治は、上野国佐波郡国定村の百姓身分の出である。国定村は畑作優先の養蚕・生糸地帯であり、また、農民剣術も盛んであった。忠治も、剣術を学んでいたという。島村伊三郎の惨殺、玉村主馬、三室勘助の殺害など、忠治の武器感覚は百姓のそれではなく、相当手慣れたものであったと考えられる。また彼は日光の円蔵、三ツ木の文蔵ら子分を擁する武闘集団のリーダーでもあった。1842(天保一三)年には大戸の関所を破るなど、幕藩制の領域支配を蹂躙する行動に出ている。 他方、1883(天保七)年の飢饉に際しては私財を投じて窮民を救ったといわれ、翌八年には賭場を開いてその利益をもって国定村向原にある磯沼を浚渫している。これは反社会・反国家的な行為であった。しかし忠治なりの世直し策の実施であったともいえるだろう。忠治は長脇差・鑓・鉄砲をもって御上に楯突いたのみならず、幕藩制国家の支配原理にまで踏み込んで挑戦する存在となっていたのである。こうして関東取締出役の面子をかけた大探索となり、ついに捕らえられることになるが、途中忠治の逃亡を手助けする同調者が多く、忠治の捕捉は困難をきわめたのである。忠治はあいにく中風に罹って倒れたところを逮捕され、大戸の関所に送られ磔刑に処せられた。
このように忠治の評価としては2つがあり、忠治を強を挫き弱を助ける侠客とする見方は、萩原進『群馬県遊民史』、橋田友治『国定忠次の再研究』、高橋敏『国定忠治の時代』、山田桂三『国定忠治伝』などの著作がある。一方、博徒あるいは無類の大悪人とする見方は、田村栄太郎『やくざ考』、しの木弘明『国定忠治伝』などの著作がある。
参考文献
落合延孝 2002 八州廻りと博徒 山川出版社
西垣晴次(編) 1989 図説 群馬県の歴史 河出書房新社