天明の飢饉
出典: Jinkawiki
1782~86年(天明2~6)にわたる全国的な飢饉。
1783年の浅間山の大噴火と気候不順(やませ、冷害)による大凶作に、各藩が米の領外搬出禁止措置をとったため、東日本一帯に大きな被害をもたらした。この3ヶ月続いた噴火は大量の火山弾や火山灰を吹き上げ、東北地方の冷害に追い討ちをかけ大凶作に拍車をかけた。夏から秋にかけて雨の日が多く、低温がつづいて全国的な飢饉となったが、奥羽(東北)地方の被害がとくにひどく、津軽藩(青森)では13万人あまりの餓死者がでたという。また、弘前藩(青森)では、1783年9月から翌年6月までの間に8万人余が餓死し、領内田畑の約3分の2が荒廃したと記録されている。飢えに苦しむ人の中には、死体の肉を食べる者もあらわれた。
1786年には、箱根山が噴火し地震が相次いだ。春から冷雨が降り続き、6月には長雨による洪水が起こり家々を押し流し、あたり一面海のように変わり果てた。水害は、江戸だけではなく関八州に及ぶほどの広範で、あらゆる河川が氾濫した。この現象は全国的規模で起こり、各地の田作に大きな被害を与えた。この年だけでの日本国中の米の収穫は、例年の3分の1以下と言われ、米価が15倍までに跳ね上がった。 これら被害の結果、各地に百姓一揆や打ちこわしが激増し、1787年5月江戸では米屋をはじめとする商家8000軒が襲われ、3日間にわたって江戸は無政府状態となった。
参考文献
精選日本史資料集 第一学習社