刀狩
出典: Jinkawiki
○刀狩(かたながり、刀狩り)
諸国の農民が武器をもつことを禁止し、領主がそれを没収する兵農分離政策をいう。制度化されたものとしては豊臣秀吉の「刀狩令」が名高いが、その端緒は織田政権下においてすでにみられる。信長および秀吉の天下統一過程において、一向一揆のような百姓の組織的な抵抗をはじめ、村落上層の農民たちが武装していることが、統一推進の障害となり、信長・秀吉は、早くから農民たちの武装解除の方向に進んでいた。
○豊臣秀吉が発した刀狩令
・百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰する。
・取り上げた武器は、今つくっている方広寺の大仏の釘や、鎹にする。そうすれば、百姓はあの世まで救われる。
・百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。
没収した武器が実際に大仏の釘になったのかというと、 一部は使われたかもしれないが、用途は不明である。これは農民から武器を取り上げるための口実のようなものと考えられる。
実際には、刀や脇差の上納と没収が名目上で展開されたのみで、祭祀に用いる武具や害獣駆除のための鉄砲などは所持を許可されるなど、刀狩の展開後も農村には大量の武器が存在したままだった。すなわち、秀吉の刀狩令によって惣村の完全なる武装解除が達成されたわけではない。また、刀狩の展開の多くは村請すなわち惣村の自検断権に基づいて実行されたケースが多い。
○その後の刀狩
後に江戸幕府が「文治政治」の導入に伴って、再び帯刀規制に乗り出す事になった。しかしこれも身分表象としての二本差し帯刀の規制による象徴的なものに留まり、農村に蓄えられた膨大な武器を消滅させるには至らなかった。ただし、内戦状態が解消して安定状態がもたらされた江戸時代には、表向き禁止された百姓の一揆が結成され、それによる権益要求の示威活動(強訴)が行われても、一揆側で真に戦闘時に威力を発揮する鉄砲や弓矢といった飛び道具の持ち出しは自粛されるなど、一定の妥協が成立していた。
これらの農村の膨大な武器がほぼ完全に消滅するのは、大日本帝国が太平洋戦争においてポツダム宣言を受諾し降伏文書に調印した後の、連合国軍最高司令官総司令部の占領政策による。1946年(昭和21年)に銃砲等所持禁止令が施行され、民間人は狩猟用や射撃競技用以外の銃器類と、美術用以外の日本刀を所持することができなくなった。これにより100万もの刀剣が没収されたという。また、それを背景に、引き続き警察が没収により徹底させた。
○参考文献
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(刀狩)
・http://www.tabiken.com/history/doc/D/D175L100.HTM
・http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume019.html
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