ナチス
出典: Jinkawiki
ドイツの政党。正式名称は国民社会主義ドイツ労働者党(Natioalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei:NSDAP)。国家社会主義ドイツ労働党とも訳す。ナチスという呼称の由来は、国民社会主義者Natioalsozialistの略称「ナチ:nazi」の複数形である。
【党結成】
1919年1月5日ミュンヘンの国有鉄道中央工場の仕上工であったドレクスラー(Anton Drexler)が、労働者をナショナリズム・反マルクス主義・反ユダヤ主義の立場に獲得することを目指して、同僚労働者24人と共に結成した。初期の名称はドイツ労働党(Deutsche Arbeiterpartei)。1920年はじめに国民社会主義ドイツ労働者党となる。
【ミュンヘン一揆までの動き】
1919年9月 ヒトラーがドイツ労働者党に宣伝担当役として入党する。
1920年初頭 国民社会主義ドイツ労働者党となる。
2月24日 ヒトラーとドレクスラー共同執筆の25か条からなる党網領発表。
・大ドイツ国家建設 ・ベルサイユ条約反対 ・反ユダヤ主義の主張
・中間層や労働者の利益を考慮した要求 など
1921年7月 ヒトラーが党首に就任
1921年11月 突撃隊(sturmabteilung:SA)結成。行進・左翼勢力との乱闘で注目を集める。
1923年10月 党員数5万6000人に達する(労働者21.7%、中間層68.5%)
1923年11月 ミュンヘン一揆失敗。ナチスと突撃隊禁止。ヒトラー5年の禁固刑。
【一党独裁体制までの動き】
この後、ヒトラーの釈放までの間ナチスは〈大ドイツ民族共同体〉〈国民社会主義解放運動〉〈戦線命令隊〉の3グループに分裂し対立した。この対立の結果、1924年7月ヒトラーは党指導から引退。ヒトラーは、同年12月に釈放された後、1925年2月に新たにナチスを再建し、議会を通しての合法的な権力獲得へと戦術転換した。
1925年から1932年までの間、ナチスは党の大衆化に尽くした。1929年秋以降には、経済恐慌が深刻化する中で、主として都市ならびに農村のプロテスタント中間層の間にも勢力を浸透させることにも成功し、一層動きを活発化させた。このような活動に支えられ、ナチスは1930年1月にはチューリンゲン邦の内閣に最初の閣僚としてフリックを送り込み、同年32年7月の国会選挙で第一党に進出した。
また、1932年春にヒトラーは大統領選挙戦に立候補し、ヒンデンブルクに敗れる。しかし、同年オンデンブルク邦の地方議会選挙でナチスは絶対過半数を占め、4月のプロイセン邦の選挙では第一党の地位へ進出する。その後、一時活動に陰りをみせるものの、ヒトラーの指導力によって乗り切る。1933年1月4日にはヒトラー・パーペン会談により、ヒトラー入閣の手はずが整えられる。
そして、ナチスを反議会主義・反マルクス主義の方向で利用する思惑を抱く工業・農業・軍部の重要人物の支援を受け、1月30日パーぺン、国家人民党、鉄兜団など右派勢力と連合してヒトラー内閣を樹立。国会放火事件を契機に、同年3月には全権委任法を制定。一党独裁体制を確立し、自らの支配体制を第三帝国と称した。
参考文献:「世界大百科事典」