井伊直弼
出典: Jinkawiki
生い立ち 開国の英雄井伊直弼は、藩主直中の子として生まれたが、5歳にして母と、17歳にして父に死別し、わずか300俵の捨扶持で17歳から32歳までの青春時代を埋木舎ですごしもっぱら心身の修練につとめた。 ところが思いがけなく嘉永3年(1850年)36歳のとき彦根藩主となり安政5年(1858年)大老職となった。 44歳、嘉永6年6月アメリカのペリーが日本を訪れて開国をせまり、以来鎖国か開国かと国内は非常に混乱した。大老井伊直弼は我国の将来を考えて安政5年(1858年)6月開国を断行、これに調印し外国と修交を結んだのである。 この大偉業をなしとげた直弼も大老の心情をくむことのできなかった人々によって万延元年(1860年)3月3日46歳の時に、桜田門外で春雪を血に染めて消えた。
大老就任―独裁― 大老に就任した井伊直弼は、安政5(1858)年6月19日にハリスとの間で日米修好通商条約を天皇の許可無く、独断で締結した。この条約は、日本側に関税の決定権が無く、アメリカに領事裁判権を認めるという、日本にとってとても不利な内容であった。幕府はイギリス・フランス・ロシア・オランダともに同様の条約を結んだ。これ以後日本は不平等条約に苦しめられることになる。 さらに井伊直弼は、紀伊徳川慶福(とくがわよしとみ)を次期将軍と決め、「一橋派」と「南紀派」に分かれて争われていた将軍継嗣問題に終止符を打った。この決定に対し、一橋派の大名は猛反発し、水戸藩の前藩主・徳川斉昭(とくがわなりあきら)は、藩主慶篤(よしあつ)・尾張藩主の徳川慶恕(とくがわとしくみ)らを引き連れて江戸城に乗り込み、勝手に条約を結んだ井伊直弼に糾弾した。 しかし決定は覆らないまま、安政5(1858)年7月6日に13代将軍・徳川家定(とくがわいえさだ)が死去する。紀伊の徳川慶福が14代将軍・家持(いえもち)として将軍職を継いだ。井伊直弼は、斉昭らに決められた日以外に勝手に登城したとして、謹慎を言い渡した。さらに、将軍職を争った一橋慶喜(よしのぶ)や、一橋派の有力大名である松平慶永(まつだいらよしなが)にも登城禁止や隠居を命じた。水戸や尾張といった徳川御三家の藩主にたいしてこのような厳しい処分が下されたのは、きわめて異例のことであった。 こうして井伊直弼は次々と政敵を排除し、独裁体制を築いていった。
参考
・岸祐二 「手にとるように日本史がわかる本」 2001 かんき出版