鎖国

出典: Jinkawiki

2009年1月20日 (火) 21:12 の版; 最新版を表示
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 鎖国の完成

 家康は、関ヶ原の戦いの後、ヨーロッパやアジア諸国に国交を求める国書を送り、朱印船による貿易を開始した。朱印船とは幕府が発行する貿易許可状である朱印状を持った船のことだ。どこにでも停泊でき、税金も不要とするなど、幕府の保護を約束されていた。朱印船貿易により、海外からは、さまざまな物が輸入されました。日本からの主な輸出品は銅でした。海外に住む日本人が増えると、東南アジア各地には日本人町ができた。日本に住む外国人も増えて、城下町には唐人町ができた。人や物が盛んに行き来した、大航海時代だったといえる。 盛んに貿易を行っていた幕府だったが、しだいに貿易船の往来に制限を加え、1639年(寛永16年)にはポルトガル船の来航を禁止。全面的な鎖国に踏み切った。その一番の理由は、幕府による貿易の独占であった。幕府は貿易によって、多大な利益をあげていた九州の大名の力を警戒し、貿易の利益を幕府で独占しようとした。対日貿易の独占をはかるオランダの動きもあった。オランダは日本との貿易を独占するため、「イスパニアやポルトガルはキリスト教によって、日本をのっとろうとしている」とふき込んだ。その頃、島原の乱など、キリスト教徒による反乱が相次いだことで、幕府は鎖国を決意した。


1. 海外に渡ることを禁止

幕府は、はじめ貿易のためにキリスト教を認めていた。やがて、信者が増えてくると団結を恐れ、1613年にキリスト教を禁止する命令を出した。さらに家光は、1653年に日本人が海外に渡ることと、帰国することを全面的に禁止した。

2. 島原の乱

こうした中で、1637年、重い年貢の取り立てと、キリスト教に対する厳しい取り締まりに抗議して、九州の島原・天草地方の農民が天草四郎時貞を総大将にして一揆を起こした。これに驚いた幕府は、キリスト教の禁止をいっそう厳しくすることにした。

3. 鎖国の完成

家光は、島原の乱をきっかけに、1639年、ポルトガル船の来航を禁止した。そして、1641年には、オランダの商館を平戸から長崎の出島に移し、これからは、キリスト教を広める恐れのないオランダと中国(清)に限って、長崎で貿易を行うことを許した。

4. 貿易の独占

鎖国によって、幕府は、外国との貿易を独占し、その力は、いっそう強いものになった。こうして、幕府の基礎を確立した家光は、1651年、胸の病気がもとで死んだ。


参考文献:「人物で分かる日本の歴史」 数学研究社 ・ 「らくらく入門塾 日本史講義」 小和田哲男著 ナツメ社


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