桓武天皇

出典: Jinkawiki

2009年1月27日 (火) 17:20 の版; 最新版を表示
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目次

*略歴*

・本名:山部親王(やまべのみこ) 光仁天皇の皇子で第50代天皇

・飛鳥時代後期  737年(皇紀1397)天平9年   白壁王(後の光仁天皇)の第一皇子として生まれる   母親の高野新笠が下級貴族であったため立太子は望まれておらず、当初は官僚としての出世を目指していたといわれる

 藤原氏などを巻き込んだ政争が起こり、773年(皇紀1433)宝亀4年 立太子    781年(皇紀1441)天応元年4月15日 即位     しばらく皇位継承がされてきた天武系(天武天皇の子孫)の都から脱して、天智系(天智天皇の子孫)の都にするため や、奈良仏教が政治へ大きな影響力を与えてきたのを避けるため、山城国への遷都を行う

 784年(皇紀1444)延暦3年 長岡京へ遷都

 藤原種継の暗殺事件や、流罪にした早良親王の祟りの噂などが広まり造都を中止

 794年(皇紀1454)延暦13年  平安京に遷都する

 続日本紀の編纂を発願する

 奈良の仏教寺院に対抗させるために、空海、最澄を唐に送り、比叡山を起こさせる

 東北地方の蝦夷征伐のために、坂上田村麻呂を征夷大将軍とする軍を送り込み、東北地方への影響力を拡大した

 延暦19年(800年)7月19日  早良親王を尊道天皇と追号し、井上内親王の墓を山陵と追称し、皇后の位を復した


*平安京と桓武天皇*

 桓武天皇は784年に大和国(奈良)の平城京から山城国(京都)の長岡京へと都を移した。これは天智天皇系の桓武天皇が政権を握るために、それまでの天武天皇系の人々と縁をきることと、奈良時代の政変で玄肪や道鏡などの僧侶が政治に介入した反省から、東大寺・興福寺などの寺院勢力から離れることが目的だった。そのため、桓武天皇は鎮護国家のために建てられた東大寺すら移転を許さずに平城京に置き去りにした。 ところが、長岡京の造営長官だった藤原種継が暗殺されるという事件が起き、天皇の弟で皇太子の早良親王がかかわっているとして捕えられた。早良親王は無実を主張して断食をし、護送中に死んでしまう。その後、天皇の身内が相次いで亡くなり、その不幸は早良親王のたたりだという噂がされ、794年、不安に駆られた桓武天皇は再び遷都を行った。 今度の都の地は、唐から伝えられた学問、陰陽道と風水の思想によって選ばれた。「この国は山が襟のように囲んでそびえ、河が帯のように巡って流れて、自然の砦をなしている」とたたえられた平安京は、「四神相応」をなしている。高松塚古墳壁画にも見られる四神、つまり南を朱雀(くぼ地=巨椋池)、北を玄武(丘=船岡山)、東を青龍(流水=鴨川)、西を白虎(大道=山陽道)が守っている形になっている。 この都は平安京と名づけられ、この時代から平安時代が始まる。


*后妃・皇子*

 多数の宮人との間で、皇子がもうけられ、後の「薬子の変」へとつながる温床となる <皇后>  藤原乙牟漏(藤原良継の娘)  息子:安殿親王(平城天皇)  息子:神野親王(嵯峨天皇) <贈皇太后>  藤原旅子(藤原百川の娘)  息子:大伴親王(淳和天皇)  <妃>  酒人内親王(光仁天皇の皇女)  <夫人>  藤原吉子(藤原是公の娘)  多治比真宗(多治比長野の娘)  坂上春子(坂上田村麻呂の娘)  藤原東子(藤原種継の娘)


*陵墓*

 陵墓は、京都市伏見区桃山町の柏原陵(かしわばらのみささぎ)とされる 1895年(皇紀2555)明治28年  平安神宮  平安遷都1100年を記念して、京都の始祖である第50代桓武天皇を奉祝する神宮として創建され、  京都総鎮守の社とされる


*関連した神社・寺院*

<大原野神社>  飛鳥時代 784年(皇紀1444)延暦3年  長岡京に遷都されたとき、桓武天皇の皇后 藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)が、藤原氏の氏神である春日大社の分霊を、大原野に勧請して祀ったのが由来。

<勝持寺>  791年(皇紀1451)延暦10年 桓武天皇の勅命により再建された。

<上賀茂神社>  平安京遷都の時桓武天皇が行幸されて、王城鎮護の神とされる。その後も歴代の天皇の行幸が行われた。

<上御霊神社>  794年(皇紀1454)延暦13年 平安京遷都の時に桓武天皇が、早良親王(さわらしんのう)、井上内親王らの怨霊を鎮めるために創祀したともいわれる。

<猿田彦神社>  猿田彦大神の託宣を受けて、平安京遷都が行われたといわれ、794年(皇紀1454)延暦13年、左大臣 紀古佐美、大納言 藤原小黒麿に命じて創建させた神社。

<藤森神社 摂社 大将軍社(重要文化財)>  平安京を造営したとき、王城鎮護のため、京の四方に祀られた大将軍神社のうちの南方

<岡崎神社>  794年(皇紀1454)延暦13年 桓武天皇が、平安京遷都のときに、王城鎮護のため平安京の四方に建てた鎮守社の一つ。都の東にあたるところから「東天王」と称され、厄除けの神として信仰される。

<大将軍神社>  桓武天皇が平安京を造営したとき、王城鎮護のため、京の四方に祀られた大将軍神社のうちの東南隅の一つ。

<青蓮院の将軍塚大日堂>  青蓮院の南東、東山の山頂に位置し、青蓮院の飛び地境内となっている。  桓武天皇が平安京遷都にあたり、王城鎮護のため将軍の像を埋められたといわれ、京都市街の見晴らしもよい。

<神泉苑>  平安京造営の際の禁苑でもあり、折雨の道場だった。  桓武天皇以降、歴代の天皇の行幸遊宴が行われる。

<五条天神宮>  794年(皇紀1454)延暦13年 平安京遷都にあたり、桓武天皇が、弘法大師 空海に命じて、大和国 宇陀郡から天神(てんしん)(雷神と水神)を勧請したのが由来。  「天使の宮(天使社)」と称されていた。

<延暦寺>  桓武天皇の勅命により伝教大師 最澄が延暦寺を建立する。  785年(皇紀1445)延暦4年 伝教大師 最澄が、比叡山で修行して草庵 薬師堂を建てて、最澄自らが彫った薬師如来像を祀ったのを由来とする。

<方広寺の大黒天像>  桓武天皇の勅命により伝教大師 最澄が延暦寺を建立するときに、比叡登山中のお告げにより彫刻されたものといわれる。


*参考文献*

・「図解雑学 日本の歴史」前澤桃子著 ナツメ社

・「人物で読み解く 日本史」原遙平著 こう書房

・京都通百科事典:http://www.kyototsuu.jp/WorldWide/TennouKanmu.html


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