三内丸山遺跡

出典: Jinkawiki

2009年1月28日 (水) 16:19 の版; 最新版を表示
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 青森県青森市にあり、これまでの発掘調査から、今から約5500年前~4000年前の縄文時代前期から中期頃の大集落跡が見つかっている。このことから、縄文時代の人々がここに約1000年間定住していた事が明らかになった。これ以外にも、約1000年前の平安時代の集落跡、約400年前の中世末の城館跡の一部が見つかっている。遺跡の規模は、全体で約38ヘクタールあり、 これは東京ドーム約7個分くらいになる。

 三内丸山遺跡はすでに江戸時代から知られ、遺跡に関する最も古い記録として、1623(元和9)年頃の山崎立朴の『永禄日記(館野越本)』がある。江戸時代後期には紀行家菅江真澄が現地を訪れ、1799(寛政11)年発行の『すみかの山』に、縄文時代中期の土器や土偶の精巧なスケッチと考察を記している。昭和に入り、28年から慶応義塾大学などによる学術的な発掘調査が行われ、昭和51年には青森県教育委員会により南側の一部が発掘調査され、縄文時代中期の大人用の墓が56基検出された。同じく51年には三内丸山遺跡の南側に位置する近野遺跡(現在では三内丸山遺跡の一部と考えられている)も調査され、縄文時代中期の大型住居跡が検出されている。

 平成4年度から始まった県営野球場建設に先立つ発掘調査で、前例のない巨大な集落跡が姿をあらわし、さらに膨大な量の土器や石器などの生活関連遺物や土偶などの祭祀遺物が出土した。平成6年7月、直径約1メートルのクリの巨木を使った縄文時代中期の大型掘立柱建物跡の発見をきっかけに、遺跡の保存を求める声が沸き上がった。世論の高まる中で、同年8月に青森県は遺跡の重要性を考慮し、途中まで進めていた野球場の建設工事を即時中止し、遺跡の永久保存と活用を決定。その後、遺跡は保存のために埋め戻さた。平成9年3月に国史跡、平成12年11月には特別史跡に指定された。これは縄文遺跡としては44年振りで3番目の指定となる。平成15年5月に、平成4・5年に調査が行われた第6鉄塔調査地点と、平成4~6年に調査が行われた旧野球場予定地の竪穴住居から出土した「縄文ポシェット」の愛称で知られる編み物や、代表的な出土品である「大型板状土偶」をはじめ、土器や骨角器など1958点が重要文化財に指定された。

 三内丸山遺跡のこれまでの発掘調査から当時の人々の食生活・交流・交易・環境・集落の様子・墓・技術などが明確となった。まず食生活はクリやクルミなどの木の実、イモ類や山菜などを食べていたこと、またマメ類やエゴマ・ヒョウタンなどが栽培されていたことが分かった。動物の骨では、普通の縄文遺跡ではシカやイノシシが多いが、ここではムササビやノウサギなどの小動物が多いことが分かっている。魚類ではマダイ・ブリ・サバ・ヒラメ・ニシン・サメ類などが多く、フグも食べられていた。 また、エゾニワトコを中心に、サルナシ・クワ・キイチゴなどの種子がまとまって多量に出土している事と発酵したものに集まるショウジョウバエの仲間のサナギなどと一緒に出土していることから果実酒が作られていたということも分かっている。

 交流・交易についてはヒスイ・黒曜石・琥珀が遠方から運ばれていたことが分かっている。ヒスイは新潟県糸魚川周辺から、黒曜石は北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形県月山、新潟県佐渡、長野県霧ケ峰など、日本海を中心として地域から、琥珀は岩手県北部久慈周辺からそれぞれ運ばれてきたものと分かっている。

 環境について、当時は現在より少し暖かく、年間の平均気温が2度から3度くらい高かったと考えられており、海が現在よりも内陸に入り込んでおり、標高5メートル前後が海岸線と考えられている。また、このあたりは集落ができる前はブナやドングリなどがたくさん生えていた豊かな森であったと考えられている。集落を作るときにクリやクルミを残してそれらの樹木は伐採されてしまい、大部分がクリ林となり、人間が管理していた。集落の中には大きな木はなく、雑草が生えている程度であった。生活しやすいように自然そのものも縄文人が作り替え、維持管理していた様子が分かっている。当時の人はゴミを単なる不要物として見ていたわけではなく、盛土からヒスイの玉や土偶が見つかっていることから、ゴミ捨て場自体が祭りの場所になったり、物を捨てるということの中に、再び帰ってきて豊かさをもたらすことを祈る気持ちが込められていたとも言われている。

 集落の様子として、ここは陸奥湾の近くに立地しており、年間平均の波の高さが約30センチメートルと穏やかな内湾で、魚が豊富だった。集落の北側を沖館川が流れており、海にそそぐ河口近くの小高い丘の上に村を作ってたことが分かっている。構造として、縄文人は土地の使い分けをしていたと言われている。特に墓と普段生活している住居は厳密に分けられていた。他に家が密集して作られる所、祭りの場所、物をしまう・貯蔵する場所、ゴミ捨て場などを作っていた。

 墓は、大人の墓と子供の墓は明確に区別され、また道路に沿うように墓を配置するなど、墓を作るにはいろいろなきまりがあった。集落の東側から大規模な大人の墓地が見つかっている。大人は亡くなると地面に楕円形の穴を掘って埋葬した。大きさは1~2.5メートルで、手足を伸ばして埋葬されたものと考えられている。中からヒスイのペンダントややじりがまとまって出土した墓もある。子どもは亡くなると、 普段使っている土器の中に遺体を入れ埋葬する。中から丸い石が見つかる場合が多く、これまでに800基以上の子どもの墓が見つかっている。

 技術として、ここの低地から赤漆塗りの木製皿などが見つかっているほか、赤色顔料なども見つかっており漆製品が製作されていたと考えられている。漆は一本の木からの樹液の採取量が少なく、精製に専門的な技術を必要とすることから、三内丸山遺跡には、そうした高い技術を持つ人がいたことが分かっている。また、イグサ科の植物を利用して編んだ小さな袋も出土しており、これは網代編みで作られている。


参考文献

 日本史B用語集 全国歴史教育研究協議会【編】 山川出版社

 石川日本史B講義の実況中継① 石川晶康 著 語学春秋社

 http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/


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