学問の自由
出典: Jinkawiki
学問の自由の歴史的背景
学問の自由とは、ある事象の系統的・体系的な知識や手法をいう。これは、真理を探究に関わることが多く、その過程で時の権力者がよりどころにする価値観や歴史観を批判・否定することも避けられない。このような性質から学問は歴史上、権力者による干渉を受けてきた。
日本の場合
プロイセン憲法(1850年)には学問の自由が保障されていましたが、それを範とした明治憲法(1889年)には学問の自由は保障されていなかった。ただ、明治初頭から大正にかけて学問の自由と大学の自治、特に大学の人事に関して教授会の同意がなければ教授の任免を行えないという慣行が確立していった。しかし、昭和に入り軍国主義が台頭してくると、これらが大きく侵害されていく。
京大滝川事件(1933年)
京都大学法学部教授滝川幸辰の行った刑法の講義が政府に対して批判的であるとされたことに端を発し、滝川教授の著書『刑法読本』と『刑法講義』が発禁処分とされ、当時の文部大臣鳩山一郎が教授会の同意をえずに滝川教授を休職処分にした。これに対して佐々木惣一教授など当時の京都大学法学部教授陣が、学問の自由、大学の自治を侵害するものであると声明を発表し辞表を提出した。このことにより、京都大学法学部は有力な教授を失った。これを京大滝川事件という。
天皇機関説事件
天皇機関説とは、天皇を国家の最高機関をして位置づけ、主権はその機関の意思であるとする見解である。 この考え方は、天皇が主権者であって、統治権の総攬者であることを否定するものでなかったのだが、天皇を国家の「機関」として扱うことは、天皇を国民の憧れとし、国民が天皇中心に統合する「国体」に反する考えだとして、その代表的な学者であった美濃部達吉の著書が発禁処分とされ、すべての公職から追放された事件がこの天皇機関説事件である。
学問の自由の保障
日本国憲法では京大滝川事件や天皇機関説の反省のもと、思想・良心の自由、表現の自由とはあえて別に学問の自由を保障した。(憲法23条) 学問の自由は1、研究の自由2、研究結果発表の自由3、教授の自由をそれの内容をし、教授の自由には初等中等教育機関の教師の教育の自由も含まれる。そこに、公権力が介入し、研究や教授内容・方法を不当に制限することは許されない。もっとも、今日の原子力研究、遺伝子操作、臓器移植、クローン技術など最先端の研究は、その及ぼす影響の大きさや倫理的・哲学的学問を含むことから一定の規制が必要となるのではないかという問題もある。
大学の自治
学問研究の中心機関は大学である。そこで、大学における学問の自由の保障を確実のものとするために、憲法23条は大学の自治を制度的にしていると解釈されている。したがって人事、施設管理などに公権力が介入することは認められていない。また、正当な令状による捜査でなければ警察も大学構内に立ち入ることもできない。