寺子屋

出典: Jinkawiki

2008年12月22日 (月) 07:29 の版; 最新版を表示
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江戸時代の庶民の教育機関として普及したのが寺子屋である。

お坊さんがお寺で子供達に読み書きを教え、その生徒のことを寺子と呼んだことから寺子屋の名が始まったと言われている。 ただし、注意してほしいのは、江戸時代に寺子屋と呼んだのは上方の事であり、江戸では手習師匠と呼び、標札には幼童筆学所、手跡指南、筆道指南などが書かれていた。

庶民の教育機関の全てが「寺子屋」と称されていた訳ではない。

手習い師匠には幕臣、諸藩士、浪人、書家、医者、僧侶、町人など様々な身分の者がなった。 内職の者もいれば本職の者もいた。婦人のケースも見られたという。 江戸の手習師匠の数は江戸中期の頃には800名もいたと言われる。


寺子屋は早い者で5歳、普通は男女とも6~7歳で入るが、初午や五節句の日を選んで入門したと言われている。 入門期間は3~5年ほどであり、主に読み、書き、算盤などを教わる。商人の男子は10歳過ぎには辞めて、奉公に出る事が多かった。


始業時間は朝五ツ(午前8時頃)で、昼八ツ(午後2時頃)には終わる。家庭の事情によって就業時間に差がでる子供も多くいたという。 午後になると出席率が3割方下がり、これは家業を手伝ったり、女子が琴や三味線などの稽古事に行くためである。 午前中は手習いの個人指導、午後は算数や礼法などのカリキュラムで行われ、昼食においては自宅に戻ってすませていた。 雨の日においては弁当などもあったという。


寺子屋で教えるのは手習(習字)が最も一般的であり、書道をしながら文字を覚えさせるのが中心になっていた。 その他にも父兄からの希望に応じて、算術、漢学の素読、女子ならば裁縫も教えていたという。 算術に関しては、八算から平方術まで教えられ、裁縫などに関しては手習師匠の妻が教えていたようである。 習字の手本としては、いろは、数字、十干十二支、名頭、苗字尽、都路、「商売往来」などがあり、素読には「四書」「五経」「実語教」などが幅広く用いられた。


休日においては、毎月1、15、25日の三日の休、12月17日から1月16日までの長休、2月初午(初午休)、3月2、3、4日(上巳の節句休)、5月4、5、6日(端午の節句休)、7月6、7日(七夕の節句休)、7月13~16日(盆休)、9月8、9日(重用の節句休)が一般的であった。


なお、師匠の謝礼としては特に定められていなかったが、入門の際は束脩といって、金銭や菓子折、扇子などを納めるのが通例であったという。 他の生徒達には親睦の為に煎餅や最中を配った。 五節句などの時にも謝礼を納め、額は最も高くて金一分、安いもので銭200文くらいで地域によってまちまちだったという。 寺子屋は明治5年の学制によって消滅していったが、私立の代用小学校として存続したり、公立学校に転換していったものもある。


参考文献 図説江戸3 町屋と町人の暮らし 2000年6月14日初版発行   監修 平井 聖 発行所 株式会社 学習研究所


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