西行

出典: Jinkawiki

2009年1月29日 (木) 13:33 の版; 最新版を表示
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西行は出家前の名を佐藤憲清といい、北面の武士であった。 出家したのは保延6年(1140)10月、まだ23歳の若き日のことであった。

  惜しむとて惜しまれぬべき

  この世かは身を捨ててこそ

  身をも助けめ

と詠んだ西行は、生の充実を図るために、所詮惜しみとおすことのできない現世を捨てたのであろうか。 他に道がないから出家したのであろうか。

読む人によって解釈の違う有名な歌である。


「重代の勇士」として共に朝廷に仕えていた西行と平清盛とは同年齢、両者の人生は著しく違うものとなった。

「一門(平家)にあらざらん者は、みな人非人たるべし」とまでいわしめた清盛の栄華は、長く続くことなく終わったが、出家した西行は、漂泊の心に誘われて、孤独な旅に出る。

彼のゆらめく心は、その流麗な調べに歌い出され、風雲に身を任せ、未知なる遁世の旅に誘われていく。


文治2年(1186)8月15日。

八幡宮に参詣した源頼朝が、鳥居のあたりを徘徊する老僧をみつけ、名を尋ねると西行とわかった。

神事が終ってから頼朝は館に招き、歌道の事、弓馬の事などを詳しく談じたと『吾妻鏡』の中で伝えられている。

弓馬の事は忘却してしまったが、詠歌は花月に対し、心が感動の時、僅か三十一字を作るだけのことと西行は言っているという。

頼朝はそこまで言いきる西行を引き留めたかったのだが、東大寺再建の勧進のため、藤原秀衡に会いに行く西行は、翌日ふりきる様に鎌倉をあとにした。

頼朝は銀作の猫を贈ったが、西行は館の門外で遊ぶ子供にその猫を与えてしまったという。


漂泊の歌人西行には、旅と歌の世界だけが捨てきれず、そこに彼の人生や歌の真髄を窺うことができる。


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