西行
出典: Jinkawiki
西行は出家前の名を佐藤憲清といい、北面の武士であった。 出家したのは保延6年(1140)10月、まだ23歳の若き日のことであった。
惜しむとて惜しまれぬべき
この世かは身を捨ててこそ
身をも助けめ
と詠んだ西行は、生の充実を図るために、所詮惜しみとおすことのできない現世を捨てたのであろうか。 他に道がないから出家したのであろうか。
読む人によって解釈の違う有名な歌である。
「重代の勇士」として共に朝廷に仕えていた西行と平清盛とは同年齢、両者の人生は著しく違うものとなった。
「一門(平家)にあらざらん者は、みな人非人たるべし」とまでいわしめた清盛の栄華は、長く続くことなく終わったが、出家した西行は、漂泊の心に誘われて、孤独な旅に出る。
彼のゆらめく心は、その流麗な調べに歌い出され、風雲に身を任せ、未知なる遁世の旅に誘われていく。
文治2年(1186)8月15日。
八幡宮に参詣した源頼朝が、鳥居のあたりを徘徊する老僧をみつけ、名を尋ねると西行とわかった。
神事が終ってから頼朝は館に招き、歌道の事、弓馬の事などを詳しく談じたと『吾妻鏡』の中で伝えられている。
弓馬の事は忘却してしまったが、詠歌は花月に対し、心が感動の時、僅か三十一字を作るだけのことと西行は言っているという。
頼朝はそこまで言いきる西行を引き留めたかったのだが、東大寺再建の勧進のため、藤原秀衡に会いに行く西行は、翌日ふりきる様に鎌倉をあとにした。
頼朝は銀作の猫を贈ったが、西行は館の門外で遊ぶ子供にその猫を与えてしまったという。
漂泊の歌人西行には、旅と歌の世界だけが捨てきれず、そこに彼の人生や歌の真髄を窺うことができる。