喜多川歌麿
出典: Jinkawiki
まず、典型的な浮世絵という評判を持ち、作品のほとんどが浮世絵の主要画題である女絵、美人風俗画である。錦絵における美人大首絵の創始者と言われて久しく、版画の作品例が圧倒的に多く、様式的に浮世絵派の中心に位置づけできるなどといった要素を備えている人物である。
歌麿の作品の遺存数は2000点を超えるが、歌麿の伝記的な事項で判明しているのは甚だ少ない。
生年は未詳であるが、昭和7年刊の東柳窓燕志編、鳥山石燕一門挿画の歳旦絵入俳書「ちよのはる」によると、当時”少年”だったことになり、宝暦中期のころに生まれたと推定されている。出生地については、江戸、川越、京都など数説あるがいずれも決定的根拠を欠いている。
しかし、江戸説が最も有力であると思われている。経緯は不明であるが、歌麿は狩野派の町絵師である鳥山石燕の門に入ったことは数々の資料より明白である。安永4年に浄瑠璃の表紙、同八年に洒落本と噺本の初作を発表した歌麿は浮世絵師の道を歩み始める事になる。
しかし、なぜ歌麿が浮世絵師を志すようになったのかは判明されていない。この間の画名は北川豊章。天明元年(1781年)春に歌麿という名を用いるまでは、この名による歌麿の画業展開が第一期であり、この第一期を初期あるいは画業の模索期であることが一般的とされている。
第一期の豊章時代で現在確認できるものは少ないが、前記の他は安永8年刊「古実金物語」、安永8、9年刊の黄表紙5種、長唄およびつらね正本の表紙絵数種、一枚絵数種の20余種を数えるのみである。主な版元はつらね正本の泉屋権四郎、噺本などの竹川藤助、黄表紙における西村屋与八といった所である。この期の挿絵には特徴的な肥痩の強い線とある種の軽みも石燕のものを受け継いでいるものと思われる。すなわち、石燕の様式を基調に、当期の一流の浮世絵師の様式を適宜取り入れているのが豊章期の歌麿であると考えられる。
天明元年、春刊の黄表紙「見貌大通神略縁起」及び絵入俳書「百福寿」において、歌麿は初めて”歌麿”名を用いるようになる。歌麿は決して豊章号と石要号を捨ててはいず、時折豊章や石要、勇助の俗称を用いる事もあった。この事から”歌麿”に改名したわけではない事が伺える。
天明期は、歌麿にとって躍進の時代であり、これを第二期とする。第二期における歌麿の躍進は、版元蔦屋重三郎との二人三脚によって達成されたものであり、この期の歌麿の作品数は推定も含めて錦絵が82点、絵入版本55点、合計137点と確認できるが、その内蔦屋重三郎の作品数が91点であるため、天明期の歌麿の作品のほとんどは蔦屋からかんこうされたものと考えられる。
天明期前期で重要な作品は《青楼仁和嘉女芸者部》《青楼迩和嘉鹿嶋踊》《忍岡花有所》シリーズ、《四季遊花乃色香》などの二枚連続の風俗画であり、爽快な涼味が漂う。時折見せる重厚な存在感は、前時代の遺物であったとともに晩年まで失われることになかった強靱さを表している。
天明期後期で重要な作品は、錦絵においては種々の狂歌入風俗画であり、版本においては墨摺あるいは彩色摺の絵入狂歌本である。この時期の歌麿の作品の過半は狂歌に関連した物であり、天明狂歌壇と蔦屋重三郎、そして歌麿との結びつきは強いものが見られる。その中で、歌麿は研鑽を積み、「画本虫撰」を初めとする彩色摺絵入狂歌本の中で画技の幅を広げ、寛政元年春には「自成式家」の印を用いて、自信のほどを世間にアピールした。天明末から寛政初めの錦絵には歌麿の個性が明確に表れており、寛政中期にピークを迎える歌麿様式がほぼ完成しつつあることを伺い知ることが出来る。また、この期には枕絵の傑作「歌まくら」を発表している事も記さねばならない。
寛政4年から8年までが歌麿の絶頂期であり、今日歌麿の代表作とされているものの過半がこの時期に刊行されている。寛政後期も意欲は継続し、新志向の錦絵を発表しつづける。ここでは寛政12年までを第三期とし、この時期の画業で第一に挙げるべくは錦絵における美人第首絵の創始とその確立である。大首絵の主要なものだけでも《婦人相学十躰》《婦女人祖人品》《当世踊子揃》《歌撰恋乃部》《霞織娘雛形》《江戸高名美人》などのシリーズがあり、他に「当時三美人」などの当時高名な美人を描いたものや吉原の花魁図、更紗裂などを背景とした美人図などのシリーズを持たない作品もある。大首絵の陰に隠れて目立たないが、この時期において歌麿は女性の全身図のシリーズにも多くの傑作を残している。その主な物は、《六玉川》《青楼十二時》《名取酒六家撰》《艶中八仙》《高名美人見立て忠臣蔵》それに女性の日常生活を描いた上村与兵衛版といった所である。
第三期の後期は、新分野への挑戦と、人気、評価の高まりからくる傲りが交差する複雑な時期であり、この時期は《逢身八契》《実競色乃実名家見》《流行模様歌麿形》《千話鏡月の村雲》などの、歌舞伎や浄瑠璃の情話に出てくる男女の主人公を積極的に刊行しているのが特徴とされている。
享和元年から没する文化3年までが歌麿の第四期であり、この時期の歌麿は濫作からくる画技の衰えを強調されることが一般的である。その点については《山姥と金太郎》《教訓親目鑑》《咲分ケ言葉の花》などの観相物の復活がある。この時代において様々な芸術家が登場するようになり、いい意味でも悪い意味でも競争心が生まれるようになる。その結果、新しい思想が次々と生まれ、幕府はやがて浮世絵の存在を危険視するようになる。版を徹底的に検閲し始め、この禁令を無視しての幕府の要人を風刺した作品を手がけた絵師や版元に対する制裁は実に厳しいものがあり、蔦屋は全財産を没収され、歌麿は文化元年に50年の手鎖の刑に処される。それでもなお新しい様式を開拓しようと時折意欲的な作品を発表するが、文化3年9月20日、約50年の生涯を閉じる。
参考文献
平成9年8月10日発行 発行所 株式会社新潮社 発行者 佐藤隆信 「新潮日本美術文庫16 喜多川歌麿」
2000年6月20日 第一版発行 発行者 矢部敬一 発行所 株式会社 創元社 『「知の再発見」双書90 日本の歴史』
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