改新の詔

出典: Jinkawiki

2009年1月25日 (日) 17:48 の版; 最新版を表示
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目次

改新の詔とは

645(大化2)年正月、孝徳天皇が難波宮で宣布した詔。(1)公地公民制、(2)地方制度、(3)班田収授、(4)税制、からなり、唐の制に基づく伊改新の基本政策を明示したもの。


内容

(1)大王家(皇族や豪族)が個別に土地・人民を支配する体制の設置してきた子代(こしろ)・名代(なしろ)や屯倉、同時に諸豪族の所有する部曲(かきべ)という私有民と田荘(たどころ)という私有地をともに廃止して、国家所有とした。豪族にはかわりにランクに応じて、食封(じきふ)などを支給する。(上級の役人には食封が、下級の役人には布帛(ふはく)があたえられた。食封とは一定数の戸(封戸)を指定して、そこからの租税の大部分を与える制度のこと。)

(2)地方の行政区画を定め、軍事・交通制度といった中央集権的な政治の体制をつくる。国・郡を定め、国司・郡司を任命。関所・防人などを配置。 具体的には、京師(みやこ)(都)を作り、畿内国の司・郡司を民名するとともに、境界を定めて行政区分をあきらかにする。軍事的内容では、関塞(せきそこ)別名、関所・斥候・防人をおいて、情報や交通手段として、駅馬や伝馬とそれを動かす鈴契(すずしるし)を準備する。

(3)農村など在地支配の仕方を決めたもの。田地支給時の要領と戸籍・計帳をつくり、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)を行う。そして、人民の管理と収税体制を整備すること。班田収授の原則を定め、人民に田地を支給するさいの要領を示す(6年毎に戸籍をつくり、班田収授法を行うというのちの令の制度が、このときから行われたかどうかは疑わしい。

(4)旧制度の税をやめて、あたらしい全国的に統一した税制を施行する。内容は、田の調・戸の調など、ほかに仕丁などの労役・兵役などを義務づける。また、郡司には采女(うねめ)の貢献を義務づけている。(采女とは、国造や県主などの地方豪族は朝廷に貢進した女性。雑役に奉仕した。)



実際

公地公民制や班田収授法など導入できたとしても、土地の計測と人民の戸口数の把握が必要なため、そうとうな時間が必要であり、作業するとなると地元勢力の抵抗も予想されているとされる。よって、このうような状態ですぐに実施できるものではない。そういった意味から、これからの政治改革の国家プランを示したものであるとされている。


参考・引用

「早分かり古代史」 松尾 光

「日本史B用語集」 山川出版社

「詳説 日本史」 山川出版社


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