大隈重信
出典: Jinkawiki
大隈重信は、1837(天保9)年に佐賀県に生まれる。幼名は「八太郎」である。 重信は、自身を菅原道真の子孫と称している。 1850(嘉永3)年、重信が13歳の時に父を亡くしている。
学制の改革の計画
佐賀藩は、朱子学のみしか学ぶことを許しておらず、大隈も7歳より藩校弘道館で漢学を学ぶ。しかし、成長するにつれて窮屈な学制に抵抗を感じ、いち早く学制改革を計画するようになる。 大隈のこの計画の背景にあるのは、1856(嘉永6)年にアメリカのペリー提督の来航によって、わが国の200年の鎖国が破られ、西洋の国々と国交を行っていかなければならない状態に立たされたという事態である。 大隈は、このままの漢学に縛られた学制であっては、時勢に遅れてしまう、何とかして西洋の技術を学ばねば、という考えを持った。
その後、蕃内は保守派と革新派の思想が対立した。その対立が最も激しかったのが弘道館の学生であった。この騒動の発端は大隈の学制改革の計画である。大隈は、革新派の主導者として奮闘し、この対立は学生間暴行事件に発展する。藩は双方の主謀者を処分し、これを鎮圧した。大隈は革新派の主謀者として捕らえられ、弘道館から退学させられる。 しかしこれを機に、大隈は蘭学に転じ、学び始める。
維新財政の参加
1968(明治元)年に新政府が誕生すると、外国事務局判事となり、外交を担当した。その年の12月には外交官副知事(今の外務次官)に昇格する。当時の外交で最も頭を悩ませたのが、貨幣の問題である。イギリスの公使であるパークスは、明治政府と諸外国が交易を行うために、日本の貨幣統一の要求を突きつけてきた。 当時の外交と財政は切り離せないものであった。
この後、大蔵省事務総裁や地租改正事務局総裁などを勤め、電信や鉄道の敷設、幣制改革、地租改正、秩禄処分などで中心の人物となり、「大隈財閥」を展開させた。
1881(明治14)年に、三菱財閥の関係を深める。しかし、同年にイギリスを真似た議員内閣制の早期導入を主張すると、岩倉具視や伊藤博文と激突した。
同年に板垣退助を総理とする自由党が発足しており、自由民権運動の高まりが危惧されていた。また、その年にたまたま起こった開拓使官有物払い下げ事件で、世論の政府批判は激化していた。
このような事態を背景に、政府は世論の動きと大隈は関係するものとして彼を罷免した。
1882年大隈は、イギリス流の議会政治を主張する立憲改進党を結成した。立憲改進党は、都市の実業家や知識人の支持を受ける。また同年10月には、東京専門学校(現 早稲田大学)を創立した。
1888年に外務大臣となり、前代外務大臣の井上馨の失敗を踏まえ、各国別の交渉を持ちかける。1889年の2月にアメリカと日米通商航海条約を結ぶことに成功するが、その内容は外国人判事を大審院にのみ任用し、外国人の内地在住・土地所有を認めるというものであった。国民は、大隈外交に期待を抱いていたが、この内容に失望し、特に外国人の大審院任用に対しては、憲法に反すると、違憲反対論が起こった。 反対運動が激化する中で、排他主義者による爆弾事件によって、右脚を失う。
1896年に進歩党を結成するが、1898年には、板垣退助の自由党と合同し、「憲政党」を結成。
日本最初の政党内閣である第1次大隈内閣(隈板内閣)を組織した。
しかし、旧自由党・進歩党の党内の対立を抑える事が出来ず、さらに、薩長藩閥や官僚グループの抵抗もあり、わずか4ヶ月で退陣する。
引用文献 中村尚美 1961 大隈重信 日本歴史学会
下中弘(編) 1992 日本史大辞典 平凡社
安田元久・鳥海靖 1994 基礎からよくわかる日本史B 穴口製本所