ナポレオン

出典: Jinkawiki

2009年1月30日 (金) 16:35 の版; 最新版を表示
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1804年 ナポレオンの戴冠 帝政を宣言

革命の英雄ナポレオンが専制君主となる。

ブリュメールのクーデターで権力を握ったナポレオンは、革命で混乱したフランスに安定をもたらすため、さまざまな政策を行った。 1804年に制定したナポレオン法典は最大の業績だった。


統領政府を樹立して権力を握ったナポレオンは、イギリスとアミアンの和約を結んで対仏大同盟を崩壊させ、教皇とも和解した。

ナポレオンは、皇帝に就任するにあたり、国民投票を実施している。 つまり、ナポレオンの君主政は、主権者である国民によって正式に承認されたものだった。


またフランス銀行を設立して経済の安定を図ったが、効果はほとんど上がらなかった。 このため彼は、中世の英雄カール大帝の再来を演出し、フランス人の国民意識を高めることで、事態の打開をはかろうとした。


教皇をパリへ招き、フランス皇帝の戴冠式を行う

パリのノートルダム聖堂に各国の代表が集まり、教皇ピウス7世の立会のもと、ナポレオンはフランス帝国皇帝に就任した。 フランス国王の戴冠はフランス大司教によって行われていたが、ナポレオンは自らそれを行い、皇后ジョセフィーヌにも彼の手で冠を与えた。 ナポレオン35歳だった。

戴冠式に続く儀式で、ナポレオンはフランス革命の成果を守ることを宣誓したが、皇帝の称号の復活についてフランス市民の反応は一部冷たいものもあった。 革命の成果が帝政で収拾されることに違和感をもった市民も多かった。 また、ナポレオンが皇帝に就任したことに対し、諸国は激しく反発した。


ナポレオンがとったさまざまな政策は、全体としては革命の強化につながるものだった。 それを支えたのが協力な政府であり、対外的にも軍事と外交の両面で、フランスは諸外国を圧倒していった。


ヨーロッパ諸国を再編成し、遠征続きにフランスは疲弊

ナポレオン率いるフランス海軍はトラファルガーでネルソン指揮下のイギリス海軍に敗れたが、陸上のアウステルリッツの戦いではアレクサンドル一世、フランツ二世を撃破した。 さらにナポレオンはベルリンを占領し、大陸封鎖令を発布し、イギリス経済を大陸から締め出した。

一時はヨーロッパの大部分を制覇することに成功していた。 フランス軍は、東はモスクワ、西はポルトガルまで攻めこみ、スペインからドイツにいたる北方海岸線に守備隊を駐屯させていた。

しかし、それだけの遠征になると出費も莫大なものになる。 占領した国々を情け容赦なく搾取してもなお、全ヨーロッパ諸国が参加する反ナポレオン戦線をいつまでも押さえ込んでおくことはできなかった。

1810年には、ハプスブルク家のマリー=ルイーズと結婚し、ナポレオンは権力の絶頂期を迎えたが、1812年のロシア遠征に失敗し、一挙に没落へと向かった。

ナポレオンは、1792年以降、ほぼとぎれることなくフランスと戦ってきた(それ以前は革命を攻撃してきた)イギリスを、激しく非難していた。 ナポレオンとイギリスとの戦争は、軍事独裁政と立憲君主制の戦いであるとともに、一世紀にわたる両国の対立の最終戦でもあった。

イギリスは、1798年のアブキール湾の戦いと1805年のトラファルガーの戦いでフランスを破り、ナポレオンのイギリス侵入を阻止することに成功する。 さらにイギリスは同盟諸国に資金援助を行い、1809年以降はイベリア半島に軍隊を駐屯させて、フランス軍への物資の補給を妨害した。 こうしたイギリスの一連の動きは、ナポレオンの脅威に苦しむヨーロッパ諸国に、大きな希望をあたえていた。


参考図書

図解世界史 関眞興 実業之日本社


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